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吉村昭 生麦事件 [日記(2007)]

生麦事件〈上〉 (新潮文庫)

生麦事件〈上〉 (新潮文庫)

  • 作者: 吉村 昭
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2002/05
  • メディア: 文庫


 薩摩藩主(ではないが事実上の藩主)島津久光の大名行列の前を横切っイギリス人を、無礼打ちにした有名な事件のドキュメンタリーです。生麦事件が時代にどう作用し、如何に明治維新を準備したかが、多彩な人物を登場させ克明に描かれています。

 攘夷武士によイギリス公使館討ち入り事件が解決していなのに今回の事件ですから、日本の治安はどうなっているのだとイギリス側が怒るのは当然です。大名行列は、藩の威信を示すものであり、その行列を乱す者は討ち果たしてもよい、という習慣法が日本にはあるのですが、これが幕末の外国人に通じる筈もありません。

 薩摩藩の行動は姑息の一言に尽きます。大急ぎで現場を離れ、京都に逃げ込みます。幕府に追求されると最初は浪人の仕業といい繕い、言い逃れができなくなると架空の藩士をでっち上げます。ついには、薩摩に帰って対イギリス戦争の準備を始めます。この時代、幕府の威光は大藩・薩摩には全く通用しなかった訳です。

 一方の幕府の対応です。イギリスは、幕府に10万ポンドの賠償金を、薩摩藩には犯人の処刑と2.5万ポンドの賠償金、さらに久光の首(首級)を要求します(もっともこれはイギリスの脅しでした)。実行されない場合は武力行使を辞さないと云うものです。この要求が突きつけられたのが2月19日、期限は20日後の3月8日。ずるずると引き延ばして賠償金を払ったのが5月8日ですから、2ヶ月半もすったもんだしていたわけです。非は日本側に在るわけですから、すっと出せばいいのですが、出せない事情が幕府側にあります。朝廷(後ろで糸を引くのは長州)は幕府に攘夷を迫り、将軍・家茂、将軍後見役・一橋慶喜を京都に呼び寄せます。家茂も慶喜も決断できず、幕閣は責任逃れで病気と称して登城もしないていたらく。イギリス軍艦が品川沖に現れて、はじめて肝をつぶして結局賠償金を支払うことになります。

 この薩摩と幕府の対応は、今風に云えば「リスクマネジメント」がどうのと言えますが、長い鎖国のため外交というか世界の常識とかけ離れて「井の中の蛙」になっていたためでしょう。それにしても、武を尊ぶ薩摩らしく無いですね。

 幕府から賠償金を巻き上げたイギリスは、次に薩摩と交渉に入りますが、物別れで薩英戦争となるわけです。生麦事件の一番大きな影響は、薩英戦争により、薩摩の藩論を攘夷から開国へと大きく変えた事の様です。もともと薩摩は島津斉彬という英邁な藩主を戴き、反射炉を作って武器を製造し、蒸気船まで手がけたどちらかと云うと開明的な藩です。その薩摩でさえ当時の藩論は攘夷一色、薩摩藩士が攘夷の挙兵を企てる寺田屋が起きる程です。久光でさえ鹿児島でイギリスとの講和を口にすることができない風潮だっということです。薩英戦争で列強との武力の差を歴然と見せつけられた薩摩は攘夷の空虚さを思い知り、久光自らイギリスとの講和を決意し、藩論を転換させます。西郷隆盛から『ジゴロ(田舎者)』と云われた久光も、本書では結構名君として活躍しますが、凡庸な殿様ではなかったようです。

 米英仏蘭の各国は長州にも同様の転換を期待し、赤間関の外国船砲撃の報復として長州に武力行使をします。戦艦17隻による砲撃は、長州の砲台を完全に破壊し、完敗した長州は和議を結ぶこととなります。この薩摩・長州の敗北は、武器の優劣による敗北でした。薩長は砲腟が(ライフルではない)ずんべらぼうで丸弾を打ち出す銃や砲だったのですが、イギリスは砲腟に施条を施し椎の実弾を打ち出すミニエー銃、アームストロング砲で、命中率と射程距離の差で負けた訳です。ミニエー銃、アームストロング砲の前で、攘夷が如何に空虚なものであるか思い知ったということでしょう。敗戦後、薩長はこれらの武器の調達と西洋式に軍制の改革を行います。この武器と軍制の差が、第二次長州戦争、後の鳥羽伏見の戦いで、数で圧倒する幕府軍を破り薩長を維新へと導くわけです。

 生麦事件が維新を準備したわけではないでしょうが、銃が維新を押し進めたことは事実でしょう。事件が薩長の武装強化を促したという意味では、作者の云うように生麦事件は歴史のターニングポイントであったのかもしれません。

 『生麦事件』もまた、吉村昭の多くの小説同様決まった主人公は登場しません。主人公は「時代」だと云ってもいいくらいです。それで、面白いのかと云うとこれが面白いわけです。時空を越えて、海江田武次がリチャードソンにとどめをさす生麦村の事件現場に立ち会い、ユーリアラス号から発射されたの砲弾の落ちる鹿児島城下を逃げまどうことができるからです。これが歴小説を読む楽しみですね。
吉村昭ですから→☆☆☆☆★


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