山際淳司 スローカーブを、もう一球 [日記(2007)]
山際淳司が亡くなってまもない平成7年の第29版、帯に「追悼 光のようにあらわれて、風の如く去って逝った男がいた。」とある。山際淳司が逝って十年以上が経つ。1980年に「江夏の21球」で鮮烈デビューを果たし、1981年に本書「スローカーブを、もう一球」で日本ノンフィクション賞受賞、二十冊余のスポーツノンフィクションと数冊の小説を残し1995年ガンにより逝去、享年46歳。個人的にも思いで深い本であり、何時の間にか本棚から消えていたので、古本を買って再読。
書名にもなっている「スローカーブを、もう一球」は、茨城・日立工業と群馬・高崎高校が、春の選抜出場をかけて戦った1980年の高校野球秋期大会の物語である。中学時代の三ヶ月だけの野球経験を買われた世界史の教師が監督を勤める高崎高校。力でおす速球投手が本格派と云われる高校野球で、変則フォームの控えのエース・川端が繰り出す時速60~70kmの山なりの超スローカーブ主人公である。川端は云う
『力で押していくピッチングは自分に全然、似合っていないことぐらいわかっていた。スローカーブを投げる時の自分をイメージすると、自分の手から離れてゆらゆらと本塁に向かっていくボールがまるで自分のように思え、妙に好きになれるのだった。』
『なぜ野球を続けているかって聞かれれば、惰性ですね、惰性』
(厳しい練習もランニングも嫌いで)『ピンチになれば、逃げればいいんです』
『一生懸命なんて、カッコよくないよ、第一、照れるじゃないですか』
という投手が投げるスローカーブと、ベンチに座ったまま動かず、バント、盗塁、ヒットエンドラン以外のサインを出さない監督がチームを甲子園に連れてゆく。汗と涙のスポ根とは程遠いもう一つの高校野球を淡々と描く。山際が描いたのは1980年代の合理性や現代の若者像ではなく、誰にでもある常識や日常が、努力や根性の大義名分を打ち砕いてゆく夢を『スローカーブ』に託して描いたのであろう。直球で人生を渡らざるを得ない人々にとって、スローカーブは尽きぬ憧憬である。
1979年の近鉄対広島の日本シリーズ第7戦を描いた『江夏の21球』、落球が人生を変えた『八月のカクテル光線』、挫折を武器にモスクワを目指した『たったひとりのオリンピック』等どれをとっても、スポーツにひそむ人生の断片を活写した好編。
☆☆☆☆★
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