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司馬遼太郎 空海の風景 中公文庫 [日記(2006)]

空海の風景〈上〉

空海の風景〈上〉

  • 作者: 司馬 遼太郎
  • 出版社/メーカー: 中央公論社
  • 発売日: 1994/03
  • メディア: 文庫

 空海といえば真言密教の確立者として最澄とともに平安仏教の創始者という歴史教科書上の存在であり、一方四国巡礼者と「同行ふたり」する「お大師さん」であり、「弘法も筆のあやまり」のあの弘法大師である。千年以上も前のまして宗教者という現在の我々にとってはまことに茫漠とした空海に、司馬遼太郎が迫る。

 小説なのか評論なのか時空を越えた紀行なのか、なんとも不思議な、やはり作者が云うように小説なのであろうか。
 どの辺りが小説家というと、例えば橘逸勢と空海が長安の繁華街を歩く風景を作者はこう表現する(橘逸勢とは、嵯峨天皇、空海とともに三筆に加えられる、あの橘逸勢である)。
「空海はそういう酒家の軒下をかすめて歩きつつ、胡姫(ペルシャ人のホステス?)というものがいかに密教仏に酷似しているかに内心驚いたにちがいない。『僧であることが気の毒だ』と、逸勢は空海をからかったであろうか。むしろ空海は密教に悟入することによって彼女らの性と自分のそれを抽象化させて空の一点で結ばれることが可能だという理趣教の境地を感じつつ、逸勢よ、僧であることで私を気の毒がる必要は無い、僧であればこそいいのだ、とつぶやいたかどうか。

長安の青綺門
胡姫、素手をもって招き
客を延いて金樽に酔はしむ

という情景もあったであろう。たとえ青綺門の胡姫が素手をもって空海の袖をひいたところで、空海はべつに動じることなく胡姫の手に触れたかもしれない。」
空海が(現代でいう)韓国?クラブで飲むわけは無い、と断じてもらっては困る、作者の云うように「この稿は小説であ」り、またそういう行動を作者が想像する根拠については、密教を選択した空海の資質にあるという。

 四国讃岐の豪族に生まれた空海は、現在でいうなら、地方の名門高校(国学)を経て東大(大学)法学部(明教科)に学び、同族の佐伯今毛人のように、ゆくゆくは中央官庁の高級官僚になるはずであった。ところが「大学」を18歳で中退しフリーター(私度僧)になるのである。フリーターになるにあたって、東大法学部決別の辞を書いた、「三教指帰」である。
 作者に云わせればこの退学という行為は、明教科(法律・行政)に空海という器が収まりきれなかった、文学部哲学科に転部するように私度僧になるのである。
 空海の履歴の空白から、作者は空海の政治的側面を抽出し実像に迫ろうとする。空海の生涯にはいくつかの自己を演劇のヒロインのように演出しようとする生臭さがあるらしい。ひとつは、恵菓への弟子入りである。長安入りして、すぐにでも恵菓のもとに駆けつけるべきであるのに、数ヶ月の空白がある。この間、空海は長安人士の間で詩の交換、書の揮毫などで名を高め、恵菓を焦らすように待たせるのである。十分に自分の価値を高め、恵菓が空海を待ちこがれる頃合いを見計らうように、恵菓のもとを訪れる。恵菓はいともあっさり、わずか2ヶ月で真言の免許(灌頂)を空海に与えてしまうのである。空海に受容能力が無ければこいったことは行われないであろうが。
この生臭さあるいは政治感覚は、唐から帰ってからも遺憾なく発揮される。持ち帰った教典の一覧表を朝廷に提出するのみで、すぐには京へは上らず太宰府に留まるのである。薬子の乱などの陰謀から身を遠ざける意味もあったであろうが、唐での名声、持ち帰った教典の価値が十分浸透するのを待ち、朝廷がしびれを切らして呼び寄せるまで待つ姿勢がみてとれる。この政治感覚は、奈良仏教との関係においても見ることができる。奈良旧仏教は、平安遷都の要因でもあるように、政治状況の中では保守野党である。この奈良仏教に空海は積極的に近づく。空海の僧としての履歴が奈良仏教に近かったことにもよるが、空海の密教により最澄の攻撃の矛先をかわそうという旧仏教の思惑と、依然として仏教行政(当時、仏教は国家の宗教であった)の中枢を握る権力を利用しようと空海の思惑が一致する。ずいぶん生臭い話であるが、そういう想像も許されると作者は云う。
 面白いか云われれば、面白かったが疲れた。
あなたが司馬遼太郎のファンか、空海の興味があるか、どちらかであれば→★★★★☆


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