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司馬遼太郎 項羽と劉邦 [日記(2006)]

項羽と劉邦〈下〉

項羽と劉邦〈下〉

  • 作者: 司馬 遼太郎
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1984/09
  • メディア: 文庫


司馬遼太郎 項羽と劉邦
(誰でも知っている)楚の項羽を破って漢帝国を建てる劉邦の物語を司馬遼太郎が書くとこなるという小説。
 「食う」ということが権力を成り立たせている。「この大陸にあっては、王朝が衰えるとき、大陸そのものが流民の坩堝になってしまう。流民のめざすところは、理想でも思想でもなく、食であった。大小の英雄豪傑というのは・・・流民に食を保障することによって成立し・・・能力のある英雄のもとには五万十万という流民ー兵士ーがたちまち入りこんでしまい、一個の軍事勢力を形成する。二十万五十万といったような流民の食を確保しうるものが世間から大英雄としてあつかわれ、ついには流民から王として推戴されたりする。」
 当時の中国中原で覇権を争うということはこういうことかと、即物的ではあるが納得する。その典型が栄陽での戦いであろう。項羽襲撃に泡をくった劉邦は(この物語では、劉邦にとって項羽は常に恐怖の対象でしかない)城を捨てて秦の糧秣庫に柵を築き籠城してしまう。兵站といった戦略ではなく、作者に云わせれば、ゴロツキ時代から常に飢え、兵に食わせることを第一に戦ってきた劉邦の「地」であると。

 作家は、劉邦について、一農民の言葉としてこう語らせる「あいつ(劉邦)はばかだからな。しかし馬鹿もあれほど大きな馬鹿になると、大小の利口者が寄ってくるらしいな。・・・劉邦は泗水が氾濫して野を浸しているような馬鹿だ。際限というものがない」と。無学で戦に弱く、英雄という意味で項羽に遙か及ばない劉邦が漢の高祖のになり得たのは、この際限のない馬鹿さかげんが人を引きつけたからだという。
張良が初めて劉邦に会うくだりで劉邦の人となりはこう描かれる。「劉邦は気分のいい男で、すぐ会ってくれたばかりか、張良に席をあたえ、その意見を聴いた。(聴くというのは、こういうことか)と、張良は聴き手の劉邦を見て、花がひらいてゆくような新鮮さを覚えた。」故郷のゴロツキ時代から劉邦の子分であった簫可、曹参、夏候嬰などすべてこうした劉邦の人格的(?)魅力にとりつかれた男たちにかつがれて漢の高祖への階段をかけ上る。
 司馬遼太郎の後期の小説にありがちだが、解説に走りすぎ作中人物が生きていない。史実と史実を挿話でつなげたような小説であり完成度は高くない、と勝手に思っている。
たとえば、張良は劉邦にこう云う
「陛下は御自分を空虚だと思っておられます。際限もなく空虚だとおもっておられるところに、知恵者も勇者も入ることができます。そのあたりのつまらぬ知者よりも御自分は不知だと思っておられるし、そのあたりの力自慢の男よりも御自分は不勇だと思っておられるために、小知、小勇の者までが陛下の空虚のなかで気楽に呼吸をすることができます。それを徳というのです。」それを物語にするのが司馬遼太郎ではなかったのか。

面白くないかといえば、それなりに面白いが、中期までの司馬遼節を期待すると裏切られるかもしれない。


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