胡同(フートン)のひまわり [2007年 レビュー]
「胡同のひまわり」(2005年・中国) 監督・脚本:チャン・ヤン 脚本:ツァイ・シャンチュンほか
「こころの湯」の監督が再び描く、父と息子の愛憎劇。
絵描きになりたかった父と、その夢を押し付けられた息子の30年がドラマの縦軸になっています。
舞台は60年代から90年代にかけて政治的にも経済的にも激変した北京。
邦題にある胡同(フートン)とは北京の路地・横町のことで、物語は四方の建物で中庭をぐるりと囲んだ北京の伝統的な住まい、四合院(しごういん)から始まります。
北京の下町は日本人の僕が見ていても「懐かしい」と錯覚してしまうところがあって、物質的に恵まれない時代の人々の暮らしは基本的に大差なかったんだなと気付くと、この作品は「中国の映画」というよりも、「自分と同世代の映画」という感覚になって感情移入を容易にします。さらにドラマの背景には現代中国の30年史が絡んでくるのでとても興味深いものがある。ところが、残念なことにドラマ自体は腑に落ちないことが多すぎました。
頑固一徹な父に振り回される息子は、父を激しく嫌いながらもその関係を絶つことが出来ない。それはまるで成瀬巳喜男の「浮雲」のよう。ただ「浮雲」と本作が決定的に違うのは、「どんなに仲違いしようと、それでも相手を求めてしまう絶対的矛盾」が具体的に描かれていないところ。だから息子の立場で観ていた僕にとって、父親の強引さには嫌悪感を覚えるのみで、しかも父親との関係を絶てなかった息子に対しては苛立ちを覚える結果になってしまったのです。
結果的には、文化大革命から始まって毛沢東逝去、4人組の追放、天安門事件など、ドラマの背景としてはこれ以上ない近代中国の歴史がありながら、ストーリーとうまくリンクさせられなかったことが、この映画で最も残念な点でしょう。
余談ですが、当局の検閲が入ることを想定し具体的な描写を避けただろうと思わせる箇所がいくつかあって(もしかしたら実際、検閲によってカットされたのかも知れないが)、シーン後半のフェードアウトやカットアウトの編集は、最終的に観客のイメージがプラスされることで完成する俳句や短歌のような趣があったと思います。この手法(演出)は使えるな(笑)。
父の期待に耐えてきた息子なら観ても良し。それ以外は共感出来ない映画かも。
「こころの湯」の監督が再び描く、父と息子の愛憎劇。
絵描きになりたかった父と、その夢を押し付けられた息子の30年がドラマの縦軸になっています。
舞台は60年代から90年代にかけて政治的にも経済的にも激変した北京。
邦題にある胡同(フートン)とは北京の路地・横町のことで、物語は四方の建物で中庭をぐるりと囲んだ北京の伝統的な住まい、四合院(しごういん)から始まります。
北京の下町は日本人の僕が見ていても「懐かしい」と錯覚してしまうところがあって、物質的に恵まれない時代の人々の暮らしは基本的に大差なかったんだなと気付くと、この作品は「中国の映画」というよりも、「自分と同世代の映画」という感覚になって感情移入を容易にします。さらにドラマの背景には現代中国の30年史が絡んでくるのでとても興味深いものがある。ところが、残念なことにドラマ自体は腑に落ちないことが多すぎました。
頑固一徹な父に振り回される息子は、父を激しく嫌いながらもその関係を絶つことが出来ない。それはまるで成瀬巳喜男の「浮雲」のよう。ただ「浮雲」と本作が決定的に違うのは、「どんなに仲違いしようと、それでも相手を求めてしまう絶対的矛盾」が具体的に描かれていないところ。だから息子の立場で観ていた僕にとって、父親の強引さには嫌悪感を覚えるのみで、しかも父親との関係を絶てなかった息子に対しては苛立ちを覚える結果になってしまったのです。
結果的には、文化大革命から始まって毛沢東逝去、4人組の追放、天安門事件など、ドラマの背景としてはこれ以上ない近代中国の歴史がありながら、ストーリーとうまくリンクさせられなかったことが、この映画で最も残念な点でしょう。
余談ですが、当局の検閲が入ることを想定し具体的な描写を避けただろうと思わせる箇所がいくつかあって(もしかしたら実際、検閲によってカットされたのかも知れないが)、シーン後半のフェードアウトやカットアウトの編集は、最終的に観客のイメージがプラスされることで完成する俳句や短歌のような趣があったと思います。この手法(演出)は使えるな(笑)。
父の期待に耐えてきた息子なら観ても良し。それ以外は共感出来ない映画かも。
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