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「クラッシュ」 [映画系]

「クラッシュ」を見に行こうと、唐突に思いついた。

有楽町シャンテシネの最終回にようやくすべりこむ。知人を待つために、ゴジラ像の近くで風に吹かれていた。青々とした木々の生命力を眺めていると、i PODからはダニー・ハサウェイ「What's going on?」が流れる。出来すぎていると思うのはこんな瞬間だ。日は暮れていく。春はすぐそこではなかった。ただじっと私の傍らで息を潜めていただけだ。いつのまにか顔に突き刺さるように冷たい風がふきつけることもなくなっている。いま私の身の内を行過ぎるのは甘さと穏やかさが渾然一体となった、ある種の高揚する予感を感じさせる--それは間違いなく春の風だった。 変化はいやおうなく訪れるのに。変わらないものもある。不寛容の連鎖だ。

映画のストーリーは、人種が角つき合わせて暮らす街ロサンジェルスが舞台。ペルシャ人はイラク人に間違えられて嫌がらせをされる、タトゥーとごつい外見からギャングと罵られる家族思いの鍵職人、平気で罵るアッパークラスの欲求不満妻(どうでもいいが初めていいなと思ったサンドラ・ブロックのデカ口を)、レイシズムを自らの出世へ利用するその夫である検事、「くそったれの白人ども」を嫌悪する黒人の車泥棒、そいつらにクルマをのっとられそうになるTVプロデューサーの黒人、老父の介護の鬱屈をプロデューサー夫婦への差別的痴漢行為で発散させる白人警察官(惜しかったなあマット・ディロン、髄液だしたジョージ・クルーニーなんて相手悪すぎ)、そういう行為を目の当たりにしてうんざりするリベラルな白人警官、だが彼も自身の内なる「差別の芽」に後ほど気づかせられる羽目になる。黒人刑事は「白人女とファックしてる」とドラック中毒の母に告白し、ブードゥのお守りは黒人青年を守らなかった。売り買いされる人々。一日。錯綜する人々と、でも間違いなく日は昇り、新しい時間が始まる。

この映画を見て思い出したのは、「ジャンクフード」という山本政志監督の作品だった。あれも一日の話で、人種対立やチーマー(懐かしいな既に)の抗争、ドラック中毒のヤツが入り乱れながらもなんとなくまとまっていくような、不思議とイイ映画だった。あの映画が日本的な「和」をあらわしているのなら、この映画はアメリカ的な「不寛容」を象徴しているような気がする。まるでぶつかりあわなければお互いを理解できないと思い込んでいるような。

何点か気になるところがなきにしもあらず。112分は意外に長く、正直もうちょっとカットできたんじゃネーノ?という気がしないでもない。東洋人のカップルがお互いをフルネームで呼び合うのは、違和感を覚える。そして結末に生じる「ある和解」があまりにも安直であるとは思う。だがそれも終わったあとに気づかせる類。それほどの出来栄え。ポール・ハギス、初監督なのに凄いです。

小さな差別は加速度を増し、連鎖し、人を巻き込み大きなうねりとなって、僅かな奇跡と過大な災厄と消えない傷を撒き散らし、怒涛の如く流れていく。営みは残酷で、でもそれがあるがゆえに「いまここ」に私は生きている。私の後ろにも前にも死体が累積している。同じように草臥れるまで、私は死体を増やし続ける。だが小さな奇跡が、この地球上のどこかで起きているとするならば。この生も無駄ではない。和解は容易ではない。不寛容はやむことなく繰り返される。差別を区別に出来る日はおそらくこないだろう。しかしそこを目指すからこそ、意味がある。 『でも、やるんだよ』

やるせない気持ちを冷徹に見据えるために、この映画を『アナタ』は見るべきだ。「私」のように自分を見つめ直す結果となるとしても。


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「ミュンヘン」軋轢につぶされていく男たち [映画系]

私の父はイスラエル建国の父と呼ばれるダヴィド・ベン=グリオン初代イスラエル国首相にお会いしたことがある。いまからもう50年近く昔の話だ。
父は青少年育成基金という団体の交換留学生としてインド、イスラエルを旅した。もちろん飛行機なんてという時代ゆえ全行程船旅である。幼いころみせてもらったイスラエルの通貨を、まだ父は所持しているのだろうか。
ベン=グリオン氏は日本からきた留学生をその自宅で迎えたそうだ。その様子をもっと聞きたかったが、遠い記憶はさまざまな出来事を紛らわしてしまう。
「こんなことをイスラエル人から言われたよ。“パレスチナで使われる数学の教科書はこんな具合だそうだ。『丘の上にはユダヤ人が5人います、2人殺したらさて残りは何人でしょう?』”冗談なのかはわからないけど…彼は信じているような様子だった」ユダヤ流の苦いユーモアだったのかわからないけれども。そして今は故国(ホーム)独立宣言から60年近くたったけれども。
不寛容。イントレランスという4つの時間軸の中で行われる“不寛容による悲劇”をグリフィスは描いた。表現はときとして鋭く私たちに問題を突きつける。だがその表現が問題となることもある。それが民族宗教問題と絡み合うと不寛容の連鎖は世界を覆う。今この瞬間においても。なお。

そういうわけで私たちはミュンヘンを見に行った。

まず映画は冒頭でミュンヘンオリンピックで起きた出来事をテンポよく伝える。当時のニュース映像を交えながら、さすがはスピルバーグ、見事な編集。ざらついて退色させた映像が「いまここで」テロが遂行されている緊迫感を秀逸に表現している。
イスラエル上層部は、このテロに報復するため、英雄的な活躍をした軍人の息子でありモサド工作員であるアブナーが選抜される。彼は民族の憤りという大義のため暗殺部隊のリーダーという大役を引き受ける。アブナーは旅立つ。妊娠7ヶ月になる妻を残して。

アブナーが率いる特殊部隊には、様々な経歴の年恰好もばらばらな男たち4人が在籍する。爆弾製造は夜学で学んだ、というおもちゃ屋、心配するのが仕事の暗殺現場を後始末する役の男、“俺は射撃の訓練はうけてないのだが、ちゃんと豚どもを殺せるのか”とアブナーに問う車両のスペシャリスト、これだけ料理がうまいのだからリーダー役も大丈夫さ、と笑う文書偽造担当。彼らはミュンヘン五輪で殺害された選手団11名と同数のPLO関係者を殺す。欧米で暮らす彼らを一人一人、確実に抹殺していく。だが、やがてアブナーたちも一人、またひとり、報復の渦の中に巻き込まれていく。

ストーリー展開も凝っていて、ミュンヘンオリンピックの悲劇を冒頭であっさりと終わらせ、あれ?そんだけ?と思っていると、意外なところで意外なカタチで展開されて実に心臓に悪い。ミュンヘンオリンピックの悲劇を主人公アブナーの強迫観念と一体化させるあたりに、スピルバーグのうまさをみせている。やっぱり編集なんかうまいねどうも。バーダーマインホフギャングとかそのあたりの話がでてきたりして脚本もよく練りこまれている。(しかしなんで岡本公三のはなしがでてこなかったのだろうか)パワーゲームのあたり(おそらくアブナーたちの情報を流したのはフランスの情報屋だろうし、そうすることによって「取引」を成立させているのだろう)のあぶり出しのウマさなどはさすがという出来である。

しかし私はどうもこの作品に納得が出来ない。(以下ネタバレご注意あれ)

前述に『強迫観念との一体化』と書いたが、これは果たしてどうなのか。ドキュメンタリータッチなのに、この悲劇、選手団が殺されていくシーンをなぜアブナーがセックスするシーンにもってきたのかよくわからない。エロスとタナトスなんて使い古されたことやるなよ、と苦笑。思いっきりな顔して(「あおおおー」みたいな)アレなシーンと選手団が無残に殺されていくシーンがどうにもそぐわない。しかも描くと「なんだよその殺戮場面は主人公の妄想ですか」と思えてしまったりする。重要な部分をあのようなカタチで描くセンスにどうにも得心できない。スピルバーグらしいといえば例のギャグ(緊張するシーンにベタなギャグを盛り込んだりするやつ)も相変わらず挿入されていたし。妙に感心した点といえば、仲間の一人がセックス中に殺されたらしく、アブナーが彼の部屋に行くと、全裸でベッドにて息絶えている、というシーンがあるのだが、ちゃんとナニが割礼されていたところ。ああいう妙なディテールにこだわるあたりが(しかも几帳面にもそこがうつるようにしていたり)スピルバーグらしさ、ともいえる。そして例によって例の如く、あんまりプラスには働いていない。

そしてこれは演じた役者の力量にかかわってくるのだろうけれども、アブナーたちに報復が始まり、追い詰められついに最後の敵を討ち果たさずに任務がおわる終盤、アブナーが国家による犯罪と自分自身の倫理観(ユダヤ教に反する)の板ばさみになるこの映画の肝ともいえるところで、圧倒的に説得力がない。彼が国家という重圧に押しつぶされていく姿、つまり分不相応な役もらって自滅しているようにしかみえない。前半もう少し強固な使命感をみせてくれるとそのあたりが明確になってくるとは思うのだけれども、なんとなく任命されたからやりました感が漂ってしまうと、国家と個人、国家による罪の告発という印象が薄れていく。

そして最後、確かに「ワールドトレードセンター」を映し出すあたりなど、心憎い演出だが、結末のあっさりさ加減がどうにも突っ込み不足だ。個人的には扱っている情報量、問題意識、どれも映画という枠には収まりきらないのではないかと思う。もっとテロの戦いに徹してその背景に「不寛容、国家による犯罪」をあぶりだすようなつくりのほうがよかったような気がする。どちらにしろ、少々準備不足の感は否めず、こういう作品を作るときのスピルバーグの問題意識が力みかえる姿だけが印象に残った。


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男汁にまみれろ!ポセイドン・アドベンチャー [映画系]

ポセイドン・アドベンチャー

ポセイドン・アドベンチャー

  • 出版社/メーカー: 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
  • 発売日: 2005/02/04
  • メディア: DVD

IBMを買った。

もちろん会社丸ごとなんていうこともあるわけもなく。まあそんな法螺を堂々とふけるような立派な人間になってみたいものだが。そういうわけで逝ってしまった4年もののDELLノートパソコン(起動後5分ほどでブラックアウト)と別れの口づけ(アデュー☆~)をして、ティンコパッドよこんにちは。B5ノートで堅牢さを誇るこのPCはキーボードが打ちやすい。レスが早い。まあそんな外タレもどきのねーちゃんがにっこり笑っておすすめするようなCMにひかれたわけでもなく、ましてやティンコなんつー2ちゃんネタに食いついたわけでもない。私にとってIBMのThinkPadは、ジーン・ハックマンだからである。(まあ電波な前フリであることは生まれる前からの約束事ってやつで)ジーン・ハックマン。数々の映画でその男汁を画面へいやってほどなすりつけているわけだが、まさにこのThinkPadはその無骨さ、デザインだ?色だ?おめえそんなの仕事できりゃいいじゃねえかという主張を全体から放つ無愛想っぷり。まさにドイルであり、スコット牧師なんである。職務に忠実。女子供はすっこんでろというこの殺伐さ。まさに漢。汗くさそうだが、だからいいんじゃなーい。そこにはフェロモンが横溢していることだろう。漲る体臭。まさに一ヶ月ほど洗ってなさそうなちんぽ具合がイカスのだとっても。(いや別にThinkPadの営業妨害をしたいつもりはまったくないので、どうも)

そんでこのハリウッドでTOP20には確実にライクインするほどのイイ顔のオヤジであるジーン・ハックマン。アクターズ・スタジオを代表する名優。アカデミー賞ノミネートされること多数。主演助演制覇。まあなんつーかハリウッド俳優でリベラルつーとまずこの人が頭に浮かぶ。実に知性的な人だと思うんだけれども、演ずるのは肉体労働者的な無骨で真面目なであるがゆえにちょっと逝っちゃっているようなハードワーカー、職務に忠実な、いってみれば常に過労死の瀬戸際にたっているような、死んだらいつでも問答無用で労災認定下りそうな、そういうイメージがあります。

この人とかダスティ・ホフマンといったアクターズ・スタジオ出身者がいわゆるハリウッドシステム(スターは出演することを第一義としてとらえ、演技はそのあとの問題だった。つまり、観客はフィリップ・マーローではなくボギーを見に行く。役柄はこの際誰でもよい。)の破壊者といえるとは思うのだけれども、60年代~70年代のニューシネマの頃が気負っていてぎらぎらとした熱い迸りを、みていて強く感じる。つまりスターがでていれば演技なんて二の次という時代の正しく処刑者であったわけだけれども、そういう部分においてもなんというかこの世代の凄みはニューシネマ時代からどの演技をしていてもある種基調としてある気がする。閑話休題。

そういうわけで「ポセイドン・アドベンチャー」同じ製作者+脚本家の「タワーリング・インフェルノ」(この映画もスゴイっすね。別項改めて)に比べるとイイ顔のオヤジVS優男という比較する前に勝負がでているような組み合わせだが、イイ顔のオヤジ愛好信奉会の会誌「巷でみかけたステキなオ・ト・コ」を毎号発行する身としては(嘘ですすみません)そりゃあ断然ジーン・ハックマンとアーネスト・ボーグナインに決まってんだろバーカという具合で天地が禍乱しようとも「ポセイドン・アドベンチャー」に軍配を上げざるを得ないのだ。実際、シリーズものは最初がおもしろいの定説通り(最近のスパイダーマンだの最初からシリーズ化が決まっているようなヌルいのをのぞく)物語的にも冴えていると思う。なにしろ脚本書いた(正確にはポセイドン・アドベンチャーは脚色)スターリング・シリファントはブルース・リーの弟子時代にしごかれまくったもんだからパンチドランカーになってしまい(推定)一作ごとに駄作化が深く静かに進行していくという有様なもので。そんな死人に口なし的な話はどうでもイイとして(ちなみにシリファントは存命だよ文句あっか!!!!)とにかく「ポセイドン・アドベンチャー」。あらすじを紹介すると

81000トンの豪華客船ポセイドン号が、ギリシャに向かうためにニューヨーク港をでたのは12月末だった。船長(レスリー・ニールセン)は最初から船の重心が高いことに気づいていた。バラスト(底荷)をしていないので、船体の上部が重く、大波を喰うと転覆する恐れもあり、スピードを出すことも危険だったが、船主の代表はそれを認めなかった。ポセイドン号が地中海に入ったとき海底地震があったという電報が入った。それから間もなく大津波がおしよせポセイドン号は一瞬にして転覆した。船体の上部が海底に没し、船底が海面に現われたのである。折から新年を祝うパーティが大食堂で催されており、集まった船客たちのほとんどが生命を失うという大惨事だった。乗客の1人であるフランク・スコット牧師(ジーン・ハックマン)は、大混乱が鎮まると奇跡的に助かった人々と共に脱出を試みた。ニューヨークの刑事であるマイク・ロゴ(アーネスト・ボーグ・ナイン)その妻でもと売春婦だったリンダ(ステラ・スティーヴンス)、雑貨商のジェームズ・マーティン(レッド・バトンズ)、中年夫婦マニー・ローゼン(ジャック・アルバートソン)とベル(シェリー・ウィンタース)、歌手のノニー・バリー(キャロル・リンレイ)、17歳のスーザン・シェルビー(パメラ・スー・マーティン)と10歳になるその弟のロビン(エリック・シーア)そして船のボーイ、エーカーズ(ロディ・マクドウォール)の9人がスコットに従うことになり、あとの生存者は、救急隊がくるまでじっとしていた方がいいという事務長の意見をとった。スコット牧師は、かすかながら船内にともる電気があるうちに、船の竜骨、つまり海面に1番近い所にたどりつき、そこで待機していれば助かるかもしれないと判断したのだ。上部に進むためには大クリスマス・ツリーを逆によじ登っていかなければならない。10人が登り終わったとき、スコット牧師の意見が正しかったことが証明された。キッチンボイラーが爆発して、残った人々を流してしまったのだ。一行はスコット牧師の指示に従い、ブロードウェイと呼ばれる通路を通り、エンジンルームにたどりついた。その間、船内の爆発はたびたび起こり、船体は往々に沈下して、海水が下から次第にせり上がり、皆をあせらせる…                              goo より

といったところ。もうね正しくパニック映画の王道というか。登場人物たちが一癖もふた癖もあるような奴らばっかりで、ボクサー上がりの牧師とか刑事と元売春婦のカップルとか豪華客船ヲタの子とか現在からは想像もできない元水泳選手とか。んで、次から次へと人を助けちゃ自分が死んだり、人のいうことをちゃんときかなかったら死んだりと因果応報がきちんと展開されていて、安心してみられる割には退屈しない。ちゃんと「ドレスに下着はつけないの♪」的なお色気要員(元売春婦)もいるし。お約束の“男物シャツにパンツ一丁”で全編こなします。(しかしあれだけ汚いと役に立っているかどうか不明。まあウェット&メッシーなマニアにはオオウケなのかもしれないが)

指揮をとるのが牧師ジーン・ハックマン(苦労人・ザ・グレート)だが、それにいちいち反発するのがイイ顔オヤジといったらこの人、アーネスト・ボーグナイン。脱出劇なんだから身なりかまわなくて当たり前ではあるのだが、そうであってもただでさえいい具合にアレな顔が、汗やら汚れやら泥水やらでますますアレになっていく様もまたすンばらしい。シェリー・ウィンタースはデブい身体にぴったりフィットしたズロース丸出しにして熱演するし。とにかくひたすら俳優たちが汚れていく姿を直視し続けるというか。みんなまた見事なぐらいきったなくなっていくんだよ。映像的限界に挑戦するかのごとく。汚れたオヤジの臭そう加減がたまらんというフェチな方には完全勃起ものでしょうな。汚れ、危機、汚れ、危機、汗、涙。ブラッド・スウエット・アンド・ティアーズじゃないけど危機と汚れと汗と涙、一言であらわすとそんなところです。

そんな泥沼はまりまくりごった煮状態の中、ジーン・ハックマンは臥薪嘗胆で鍛えたヤッタルデ精神の男気でいちいちいちいち乗り越えていく。理解されなくてもいいんだ!これが俺の道なんだ!と大声でマイウェイを絶叫するかのごとく、愚直にいちずにただただ突き進む。その漢っぷりたるやハックマンの男汁が噴出するサマを確かにこの目で見たと実感できるほど。画面にはひたすら男気と大書されていくのだ。個人的にはこの映画“ジーン・ハックマンとアーネスト・ボーグナイン、夢の男気(男汁)対決”であると思っているので、もうただ女子供は黙って、血中漢度が低いオスは正座して見つめるべし。そういうシャシンなのだよ諸君。

で、ご多分に漏れず、この映画、日曜洋画劇場(大切なことはみんな日曜洋画劇場で教わった…ってそりゃ映画秘宝のキャッチコピー)でみたっきり、つい最近まで忘れていたのだが、久しぶりにみたのはラブホの映画チャンネルだったというこれまたアレな再会だった。そんでもってその男のちんぽをずるずると下品にしゃぶりながら、「ポセイドン・アドベンチャー」を見続けた。熱い男たちの手に汗握る冒険。命をかけたアドベンチャーをみながらフェラチーオに励んでいたわけです。「これってオモシロイよねー」と黄色い声で其奴がいう。ああそうね、と答えつつもふと画面の男たちの汚さと今この状態における下劣さについて形而上学的に考えてしまった。もうそうなると完全に駄目になってしまい、其奴とは苦いセックスをこなす羽目となり、以後二度と会うことはなかった。そんなショッパイぬけないエロ話はどうでもいいんですよ!!とにかく!!漢の汗は尊い。体内血中雄度を高めるにはまたとない映画なのだ。どうかハックマンとボーグナインの漢汁にまみれてほしい。頼むでホンマ。


つまりジーン・ハックマンは漢。フレンチ・コネクション [映画系]

フレンチ・コネクション

フレンチ・コネクション

  • 出版社/メーカー: 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
  • 発売日: 2005/10/28
  • メディア: DVD


私事で激しく恐縮ですが。彼と喧嘩した。朝の5時から延々5時間ほど。

怒鳴り罵り、非をあげつらう。ヒトとヒトが支え合っているから『人』という字になるのだよ的な金八ヒューマニズムとは対極にある状況。やるかやられるか。殺伐とした空気の中いたたまれないからこそ怒鳴りあう。そんなこんなで気がついてみたら家を出ていた。しばらくお茶して家に戻り、そういうことで人は分かり合っていくのか、などと考えつつ茶の間でぼんやりしていると父親にシンミリ諭された。そうはいっても居直るのは最低だ、と斬り捨てると、そうはいってもよ、それが男ってもんだよ、と諦観の中で明るく断言された。そうか男か。 そんなまあショッパイ話で始まるのですが、その“男とはなにか”という命題を具現化したのがまさにこの、フレンチ・コネクションにおけるジーン・ハックマンの役回りだと思うのだ。そういうわけで、またまた真の漢、ジーン・ハックマンの登場です。またかよ、そんな声はイイ顔普及委員会においては却下されることと肝に銘じてほしい。今回は『狂犬』とあだ名されちゃうような鬼刑事を逝った目で演じております。漢。漢字の漢と書いて漢と読む。そんな小池一夫先生的なセンスがよく似合う。それがジミー・“ポパイ”・ドイル刑事。

あらすじ:ふとしたきっかけからフランス→アメリカのマフィア間で行われるヘロイン50㎏(時価3200万ドル当時麻薬取引の史上最高額だった)の密輸に気づいたN.Y市警麻薬課のジミー・ドイル刑事(ジーン・ハックマン)とバディ・ラソー刑事(サムシング・ワンダフルことロイ・シャイダー)。彼らはマフィアを一網打尽にすべく、N.Yマフィアを張り込み盗聴尾行などあらゆる捜査を行う。それはときとして違法すれすれだったり、暴力を伴うものだった。そんな相棒にあきれつつもラソーたちは犯人を追いつめていく。取引のためフランスから麻薬王(フェルナンド・レイ。本来は別人が起用されるはずだったが、天の恵みとはこのことをいうのだろう。これ以上ないくらいの適役)が訪米し、ドイル刑事は必死で尾行するがかわされ屈辱を味わう。そして麻薬王の右腕が邪魔なドイルを消そうと白昼狙撃する。辛くも被害を免れたドイルは、狙撃手を狂犬のように追いかける。狙撃手は地下鉄に逃げ、やがてジャックし、ノンストップの列車を高架下の道路を使って車でおいかけるドイル。(このシーンは変速カーチェイスとして非常に有名)列車はブレーキがきかず他列車に衝突。犯人がよろよろと降りてきたところを問答無用に射撃するドイル。やがて取引は佳境にはいる…。
(この先を知りたい方はこちらこちらでどうぞ。とくにこちらのサイトは私がこんなブログでぐだぐだいうのがまるっきり無駄なくらい的確に批評してます。登場人物とモデルとの比較もあり非常に親切。みてないやつはいますぐみれ!)

この映画を見ると、いかに最近の映画が説明過剰でご都合主義かがよくわかる。レビュー読んでいたら古い、ドラマ性がないなどと書いてあったけれど、そのドラマ性とやらは、絶対に死なないというのんきな安心感の中、筋肉と脳の比率が反比例しているような白人刑事(もしくはやたらスマートでひき絵がナイスな黒人)が景気よく銃をぶっ放しながら、犯人も情報も性欲処理係の乳のでかいおねえちゃんもなぜか都合よく口あけて待っている雛に餌をぶっこむ勢いで登場するとかそういうことなのではないだろうか。そういう意味合いでのドラマ性は確かに本作にはない。化学調味料を多量に含んだ食品を食べ続けると今度は、それがないと物足りなく感じるようなものである。

ここに描かれている犯人追跡は非常に地味だ。過剰な説明は省かれており、ひたすら厳寒のN.Y、その殺伐としたリアルさ、隣で人が殺されていてもスルーするような都会人気質と、犯罪やら危険やらが背中に張り付いている感じが画面全体の緊張感とも相成って混沌未分となっているところを、ひっかきまわして藻掻き喘ぐ既にして紙一重状態のドイル刑事=ジーン・ハックマン。やたら優雅な麻薬王の食事風景を見ながら――かたや一流ホテルの一流レストラン、あ、その鴨とね、エスカルゴをバターであえてね、それとグリーンソースをわすれないように、なんていいながら銀のフォークとナイフを分身のごとく操って食事しているところを凝視しながら、てめえは凍死もやむなしの寒空のもと、チーズが煉瓦状態になったピザと冷え切って泥水と化しているコーヒーをすするしかない。金持ち、アッパー階級への羨望と嫉妬、ブルーカラーの逆襲というようなスタンスで睨み付けているドイル刑事。自分がその負の感情で動いていることを熟知しながらも、それがなんで悪いと居直る。大物逮捕するためにはなにやったっていいだろと差別主義をむき出しにして平然と黒人をぶん殴る。こういった居直りさ加減が本作の白眉じゃないですかね。(この撮影がどういう状況下で行われたかはこちらのサイトでご確認ください)つまりこういう姿が、大事の前の小事という言葉でうまく言いくるめてしまえる、本質的にそれは全く正しいのだけれども、なんでもアリはどうよ?という指摘は腹に収めてほしい。ルサンチマンとリビドーと居直りで人は生きているのではないのかね。そうでないと生きていけねえんだよ!と少なくとも画面の向こうからドイル刑事は怒鳴り続けているのだな。

居直り。おめーらが綺麗なねーちゃんとオメコしてんのに、どうして俺はこんなところでぐだぐだとシケたツラのおっさん(ラソー刑事)みながら酒飲まなきゃいけねえんだ、とアイツがあんなに金があるのはおかしいと疑う導入部といい、肉体労働者階級のど根性(=居直り)が全編にわたってこれでもかこれでもかと叩きつけられる。最後ドイル刑事は行き着くところまで逝ってしまい、居直りどころか別な世界へと旅立たれてしまうのだが、それも含めて、本作はアリなのである。間違って役人を射殺してしまっても“俺はミジンコ殺してもしょーがねえんだよ!!!”とばかりに「あっちに行ったな」と放置して麻薬王を追いかけていく。あのシーンがあるからこそ、この作品はアカデミー賞へ到達できたといえる。最後の銃声は、続編を眼中に入れたことではない。善悪の彼岸を超えたドイル刑事への弔砲だったのではないだろうか。ああ父よ、あなたは正しかった。男の本質は居直りにある。それは時としてこれほど切実であるのだ。


かすかなしるし [音楽系]

SUBLIMINAL CALM

SUBLIMINAL CALM

  • アーティスト: SUBLIMINAL CALM
  • 出版社/メーカー: ビクターエンタテインメント
  • 発売日: 1992/02/21
  • メディア: CD
SUBLIMINAL CALMというグループを知っているだろうか。グループというかユニットですね。SUBLIMINAL CALMとは、いとうせいこう+藤原ヒロシという非常に豪華なメンツががっぷり四つに組み割と正統派J-POP、らばーずみゅーじっくってヤツですか?それに取り組んでいたユニット。あの“いとうせいこう”が切々と恋心を歌い上げる…といった時点でかなりの胡散臭さが漂ってしまうのだが、そういう先入観をヌキにすると耳に残るグッと来る曲もある。それが「かすかなしるし」。
以前JRのCMでUAが唄っていたバージョンが流れたそうだが、そのオリジナルがこちら。いとうせいこうの、不安定で、どちらかというとウィスパーボイスに近い微妙な音程の歌声がストリングス、ピアノと相まって実に切ない、後味のキレがよい仕上がりになっている。ただどうしても“いとうせいこう”というある種のイメージに囚われてしまいこちら側へナカナカ直截に浸透しないのが残念だ。この曲のPVもよかった。映画のフィルムへ本人達をとけ込ませたようなハンパに前衛的な感じが。

この曲ともうひとつ、オリジナルラヴの「月の裏で会いましょう」が私のある年代を象徴する曲であったりする。
THE VERY BEST OF ORIGINAL LOVE

THE VERY BEST OF ORIGINAL LOVE

  • アーティスト: オリジナル・ラブ, ORIGINAL LOVE, 小西康陽, 田島貴男, 木原龍太郎, 宮田繁男
  • 出版社/メーカー: 東芝EMI
  • 発売日: 1995/04/28
  • メディア: CD

中高時代、スペースシャワーTVをよくつけっぱなしにして読書したりしていた。そのとき、このSUBLIMINAL CALMの「かすかなしるし」とオリジナルラヴの「月の裏であいましょう」が何故かセットで流されることが多かった。「月の裏~」が流れるとその後「かすかなしるし」だったり、またはその逆とか。双方の歌が好きだった私は迷わずビデオ録りし、田島貴男の明朗で滑舌の良い発音のおかげで「月の裏であいましょう」は曲を買わずともビデオで歌詞を覚えてしまったぐらいだ。(結局始終聞いていたいのでCDは買いましたが。)この「月の裏で会いましょう」は“愛の奇跡”などといった現実離れした言葉が頻発するのだが不思議と、この伸びあがる耳馴染みの良いクラリネットのような声で唄われるとしっくり、ごく普通にうなずけてしまうから不思議だ。iTuneで視聴できるので是非聞いてみて欲しい。だいたいにおいて私はオルガンのようなエレピの音にはかなり弱くそういう音が入っているだけで無条件によしとしがちなのだけれど、それを差し引いてもテンポ良くキレがよいメロディが実に心地よい。繰り返し聞いても飽きることがなく、こうして10年以上経過しても再び聞きたくなる。味わいのある曲なのだ。
思い出せば。
膝を抱えて夜を過ごし、読書もなにもする気になれずタダぼんやりとTV画面だけをみていたあの頃。そうしてその夜の永遠性をかたくなに信じていて。柔らかなボーカルが右の耳から左へ放物線を描いておちていく。
いまもまた眠れずに夜を過ごしこの曲を流し込みながら私は思う。
 
「ああ 私は あなただけを 愛してる」

「ホテル・ルワンダ」まずは見る。それからはじまる。 [映画系]

かなり遅くなりましたが、1月6日に行われましたホテル・ルワンダ試写会より映画内容を簡単にレビューしたい。これは 是非見に行ってほしい映画である。

内容についてここではくわしく触れない。既にいろいろなところでながれているだろうし。知らなかったら詳細はコチラで確認して欲しい。そしてできるならば実際に映画館へ足を運んで自分の目で「4月のある日にそこでなにが起こったのか」を確かめて欲しい。ルワンダはフツ族によるツチ族虐殺により3ヶ月間で80万人~100万人にのぼる人々が命を落とした。(ルワンダの人口は2004年現在で約841万人)この物語はその狂気の中で、自らは多数派フツ族に属しながらも、家族を守ろうと決意し結果1268人もの人々を救うことととなったミル・コリンホテル元副総支配人ポール・ルセサバギナの格闘と家族愛の物語である。

最初はツチ族虐殺を示唆する露骨な民族主義(フツ・パワーと呼ばれる)の台頭に心を痛めながらも、まさか現実になるとは考えていなかった主人公。姉夫婦が情報を得て“これは現実になるから今のウチに逃げよう”と意見するが耳を貸さなかった。ある意味インテリ・知識階級であるがゆえの現状認識の甘さが描かれていた。だが彼は実際にコトがおきると、見て見ぬふりを決め込んだりはせず、ホテルマンとして白人社会でのし上がってきた実力をいかんなく発揮し、賄賂・ハッタリ・脅しなどあらゆる手段を駆使して虐殺者たちに立ち向かう。圧巻は、国連による介入軍の到着を待ちながら、国連は単に外国人居住者を引き上げさせPKFも特に増員もせず、結局ルワンダを事実上見殺しにした部分の描写だ。黒人たちを尻目に白人たちは自国の軍隊が用意したバスに乗り込む。現地人たちはそれをただ見守るのみだ。雨が降る。その中を白人宣教師に手を引かれた現地の孤児たちがやってくる。だが約束の地へいくバスに乗れるのは白人宣教師達だ。激しく降る雨の中、ポールたちは彼らが去っていくのを見つめる。絶望と安直に言ってしまうにはあまりにも言葉が軽いシークエンスだった。

映画は結末がつくけれども、現実は決してそうではない。この映画を見て、アフリカになにができるのかと考えることはたやすいが、それはある種の思考停止状態といえる。なぜならば、ではそこでアナタは今までアフリカのナニを知っていたのかと問われて、果たして答えられるのか。アフリカの歴史についてどれほど学んだのか。あるいは冷戦下においてソ連などの東側諸国がアフリカに及ぼした影響についてどれほど理解しているのか。それらの問題についてまず触れなればアフリカの現状を考える端緒に到達したともいえないのだ。白いバンドを買っただけではアフリカ・アジアの貧困についてなにも知ったことにならないのと同じように。

この映画をみることは非常に重要である。そしてそれと同じくらい重要なのは、今後アフリカ諸国、あるいは旧冷戦下の社会構造について多少なりとも知識を得ることではないだろうか。カラシニコフは旧ソ連が開発したモノだが現在それはどこが生産し、誰が使わされているのか。そういった国際社会構造における負の側面について考えることだと私は思う。

最後に、全く許せない出来事を二つほどあげたい。それはこの試写会に来ていた人間のマナーの悪さだ。私の隣に座っていた30ぐらいの男性は、映画のクライマックス場面で携帯を取り出しパッカパッカご開帳してくださった。こっちは集中できずいらいらしっぱなし。おまけに妙な臭いがするなと思いきや、映画終了後ふとその男性を見れば、靴を脱ぎ椅子の上であぐらをかいていた。まったく信じられない。こういう人間がこの映画を見てアフリカを救わねばなどと発言したら私は即座にぶん殴っていたと思う。そして試写会途中に来て終わる前に退場し、シンポジウム途中に来て、終わる前に帰ったりといった謎の行動をしていた若い女性たち。なんだかな。見たことで自己満足する前にもうちょっとなにかやりようがなかったのかと思った。(シンポジウムも開催されてましたがコチラでは触れません。別ブログのこのあたりの記事http://blog.so-net.ne.jp/pussycat/2006-01-14をお読みくだされば幸い。)

ちなみに頂いたパンフレット

表紙

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

裏表紙


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「ワイルド・パーティー」=オツパイおつぱいパイオツのてんこ盛り+大映ドラマのジェットコースター [映画系]

ワイルド・パーティー

ワイルド・パーティー

  • 出版社/メーカー: 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
  • 発売日: 2005/02/18
  • メディア: DVD
 
 

ラス・メイヤーと聞いて「巨乳」と連想したアナタは相当の○○マニアですなウフフ。もちろん○○は映画が入りますよ!とベタな言い訳をかましておいて、さて「ワイルド・パーティー」。マイナーがトレードマークともいえるラス・メイヤーの唯一?メジャーで製作した作品。厳しいヘイズコード(日本で言う映倫みたいなもの)が幅を利かせている当時のハリウッドでよくぞここまでやったなあという清清しさの残る“怪作”。

もうねオープンニングからアレな予感でぐっしょり、ってなもんで。なにせ裸ん坊で寝ている女(巨乳)のところへ忍び寄る妖しげなマント姿。そして女の口にぐりぐりっとねじ込むのは残念ながらアレじゃなくて拳銃。そして喉の奥までアア其処ヨとばかりに目覚めた女は絶叫…そのままイカシた(死語)女の子の、ソウルフルなボーカルにつなぐというまさに”グルーヴィな編集かくあるべし”の見本ですなこれは。物語の主人公はこのボーカルやっているタレ目で巨乳なおねいちゃんケリー。ハイスクールの学祭またはダンスパーティでの演奏が関の山であるケリー・アフェアというバンドを率いている。演奏が終わって移動バンに乗り込むや否や、ケリーは早速彼氏兼マネージャーのハリスとウフンアハンずっぽこべろんちょとばかりに励み出す。その姿に男嫌いのベース担当ケイシー(黒髪巨乳)とドラム担当アフリカ系ペット(ブラックピースな巨乳)はあきれ顔。それでも3人は明日のスターを目指し、大金持ちでロスに住むケリーのおばさんを頼って上京することにする。上京を相談するケリーとハリス。尻込みするハリスへいきましょ!いきましょ!と煽るケリー、二人の声をバックに展開されるカットがまたイカス。いろんな場面を短くパッチワークのようにつなげたもので実にかっこいい。(このシーンにはこれから起きる出来事も挿入されていたりするので見る際は要注意)

ケリー・アフェアのサイケでロックでいかにもフラワーチルドレンといった感じの曲が流れる中、彼らは一路ロスへと向かう。そして叔母(巨乳)からロスの超有名プロデューサーZマンを紹介される。(彼らのパーティ場面がまた凄い。ストロベリーアラームクロックが演奏するは「インセンス・アンド・ペパーミンツ」!)彼の手がけたグループは大スターを約束されていると聞き、ケリー・アフェアからキャリーネイションへとグループ名もチェンジした彼女たちは瞬く間にビックスターへの道を歩み始める。同時にドラッグも…。

ビッグになった彼女たちに取り残される形ですっかり居場所を失ってしまったハリス。彼はZマン主催のパーティ常連であるポルノ女優(演じるはこの映画が縁でラス・メイヤーと結婚したEdy Williams。もちろん巨乳)に言い寄られずるずると関係をもってしまう。ペットは黒人の権利向上のために弁護士になりたいと向学心に燃えるエマーソンとなかよくなり、ケリーは美男子俳優(という名目のヒモ)ハリスと出来、放置状態のハリスはポルノ女優にも捨てられ(「ベッドでしたがるなんておかしいわ!」)、ケイシーに愚痴るが勢いで彼女を抱いてしまう。だがののしられ自暴自棄となったハリスは、ケリーたちがテレビ番組で演奏中にスタジオの照明器具をつる鉄骨から飛び降りて半身不随となる。ケイシーは自分がハリスの子を妊娠していたことを知る。嘆き悲しむ彼女へ近づいた女性デザイナー(巨乳…)は中絶させた後、彼女を押し倒して同性愛の世界へといざなうのであった。ちなみにこのシーンでは一緒に見ていた知人(男性)が「なんですかこれは!?」と真剣に意味を問うてきました。知るかンなもん。閑話休題。

で、こんな具合に怒涛の不幸展開が延々と大映ドラマか昭和初期の愛欲モノかってぐらいにボディアタックしてくるです。おまけにそんな荒波にもまれている最中に“草原を駆け回る若い二人あはははは”(inソフトフォーカス。ロマンティックですな)なんてエマニュエル夫人もびっくりな映像が挿入されるのです。もうなにがなんだかわからないままその後は突如、冒頭の殺人場面にうつりそして奇跡のハッピーエンド!(クララ!)最後は教訓めいたシーンが流れてウェディングマーチで痔・エンド。まさにサイケ、まさにヒッピー、とにかくありとあらゆることをネタにし消化し融合させ化学反応がビシビシと起こりまくってます。見終わると妙にすっきり爽快、脳内にアドレナリンが満ちて実にポジティブシンキングとなっていることでしょう。

またイカレてるのはストーリー展開だけじゃなく、登場する人物がそろいもそろってイカレてるか奇天烈かオマタ緩いかというエキセントリック度合いフルスロットルで爆走しまくる。ロールスロイスでコトをいたすのを無常の快楽として、その最中に「メルセデスなんか!メルセデスになんか!負けないわ!ロールスよロールスぅぅぅ!!!!」となぜか激しいメルセデスへの憎悪をむき出しにして野獣のようにやりまくっていたりするポルノ女優やら、スーパーウーマンと名乗るフリークな方とか。ヘイズコードは遵守されるもののまあ仕方ないねメジャー作品だし。でもあっちこっちでポロリと女だらけの水泳大会みたいなヌルイ仕様ではなく、実に皆様豪快にバッカバッカと脱いでくれます。現れるのはもちろん巨乳。巨乳巨乳巨乳の目白押し。エロいけど妙に明るくて上品なのはさすがラス・メイヤー。職人芸だねえ。

この映画、巨乳萌えの方もそうでない方も男も女も必見の傑作!巨乳を目に焼き付けろ!みるべし。


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「宇宙戦争」誰かスピルバーグに面白いジョークを教えてやれ [映画系]

宇宙戦争

宇宙戦争

  • 出版社/メーカー: パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン
  • 発売日: 2005/11/09
  • メディア: DVD
みなさま、もう松の内過ぎてお正月飾りを飾っているお宅へソロソロ“片付けられないオウチ”とのレッテルが貼られかける今日この頃ですがあえて挑戦。あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

さて正月休み、暇だったのでDVD鑑賞と読書に励んでおりました。その中で、色んな意味でオススメの映画をピックアップしてテケトウにご紹介。しばしお付き合いくださいませ。

去年の話題作「宇宙戦争」。スピルバーグはいいときと悪いときの差が激しい。まあそれだけ天才ってことなんだろうけど。でこの映画。こっちはダメなほう。なぜかトム・クルーズと組むとダメ映画になる確率が高いような気がする。マイノリティリポートとか。パニック映画にかけては凄腕のスピルバーグがどうSFという題材をそのカテゴリーにおいて処理するか、というのが目玉なんだけれども…。基本的に生真面目な人なんだろうな。パニック映画につき物の人間ドラマは丁寧に描かなきゃ、科学考証はきっちりしないとデバンカーがうるさい、CGに金かけないとリメイクした意味ねえしなあ、トムの活躍シーンいれないと“駄作なのはスピルバーグが人格テストを受けないからだ”といわれかねないし、などなど、といったいわゆる大人の事情が入り乱れてしっちゃかめっちゃか渾沌未分となって転がり破綻し反転し。まあとにかく肩の力が入りすぎというか、開かない瓶のふたを力いっぱいひねりすぎて壊しちゃったよ的な感じといえば近いかもしれない。
 
とりあえず話の内容といえば、
港湾労働者として働くトム・クルーズは今日が離婚した妻に引き取られた子供たちとの面会日だった。離れていた子供たちは自分になつかず、反発するばかり。手を焼いているとテレビでは地球上のあちこち(ちゃんとテレビ朝日映りマス)で発生している不可思議な磁気嵐の模様が報道されていた。やがてそれはトムのいる街にも起こり、雷が落ちたところは不気味に盛り上がり、なんと地中から金属の固まりが浮かび上がる。それらは意志を持ち、光線で人々を殺しはじめる。なんだかよくわからないながらも逃げるトム。今回の事件を取材していたテレビクルーと遭遇した彼は、実はそれが遠くはるかな昔に地球へ埋め込まれた火星人の侵略用殺戮兵器トライポッドであることを知る。次々に殺されている街の人々。トムは子供たち二人を連れて別れた妻のいるボストンへとむかう…。
 
とにかくね、アナタ。あの昼の帝王トム・クルーズがいきなり港湾労働者。見事ホワイトトラッシュへ転進、といいたいところだが、マーク・ウォルバーグならまだしも、トムですよトム。常にヒーローを追及し続けた彼では、どうにも似合わない設定。コチラとしてはいつ労働者とは世を忍ぶ仮の姿…と戦闘服に着替えて砂漠でひそかに研究が進んでいた破壊光線オキシジェンデストロイヤーを携えて登場するかとワクワクしながら先走り汁でテカっておりましたが残念なことに似合わない役のまま話が進行していく。またリアルな人間関係を、ということなのだろうか、子供たちがまったくかわいくない。しかしねえ、もともとSFパニック映画、火星人襲来なんて、ねえ。グレイならまだ可能性がありや?とも思わせるわけですが、21世紀アトム生誕が過ぎてしまった2006年ともなれば、そんなところでリアリティを追求されても、と戸惑うばかり。しかもその展開たるや、一昔も二昔も前に流行ったニューシネマもどきともなれば、作品の質もおのずとお里が知れようというもの。普通の人が緊急事態に陥った場合どんな風になるのか、なんて地味な主題を特にひねりもなくそのまんま取り入れて話をススめるから、いろんな人が思わせぶりに登場してはあっけなくサヨナラし、しかもその後特に内容へ絡んでくるわけでもなく、意味がよくわからず見ている側はひたすら混乱するばかりだ。ティム・ロビンスなんて何のためにでてきたの?よっぽど彼の方が「らしかった」のが痛すぎた。ティムが「ミュンヘン」にでてたらどうしましょう。大阪じゃ倒したらしいしな。そんなわけでスターウォーズエピソード3が悔しかったのか、はたまた「ミュンヘン」に金が必要だったのか、真実は神のみぞ知るが、結局呆然と劇場を後にするのは観客である我々なのであります(嘘です。DVDでみましたスンマセン)。
 
パニック映画の常套手段といえるO・Jシンプソンの法則がここでも発動し、行き別れになったはずの登場人物が(どう見ても死んでるとしか思えん)ラスト近くでひょっこり姿現したりして、やはり法則通りどう見てもそっちついてった方が絶対助かるのでした。本当にありがとうございました。(O・Jの法則については拙レビュー「タワーリングインフェルノhttp://blog.so-net.ne.jp/pussycat/2005-10-24」参照のこと)

ワタシが見たのはレンタルビデオでご丁寧にリメイク元となった宇宙戦争(SFパニックならこの人、ジョージ・パル製作)のDVD二枚組セットとなっていて両方見比べることができたわけだが、正直パル製作のほうが見ごたえがある。確かにかなりチープで宇宙船は釣り糸見えまくりだったりするわけだが、それでもきちんと人間関係が織り込まれておりコンパクトにまとまっているので終わりのあっけなさを含めて費用対効果としては文句はない。ま、こんなもんだろ、と納得できる。
 
だがリメイク版スピルバーグバージョンはどうだ。つまんねえニューシネマもどきの人間関係がぐだぐだと続き、爽快感もなく、ぎゃーぎゃー騒ぐだけの子役に感情移入もできず、最後の結末だけファンタジーってどうよ。重要な部分(金のかかりそうな部分もしくは面倒な部分)はさらっとナレーションですますっていうのも「昔ならアリかな」と鷹揚な気持ちにもなれるがしかし!50年前の映画とそこが一緒でどうするスピルバーグ。まあミュンヘン(しつこいな)のほうに気持ちがいっていたのはよくわかるけど。極論を言えばパニック映画、とくにSFがらみとなると細部のディテールに凝るべきで、人間関係なんぞご都合主義でよいのではなかろうか。とにかく観客がみたいのは(ありていにいえば)無惨に殺されていく人々の姿であり、自然・災害・宇宙人にはかなわねえっていうカタストロフである。要するに見せ物(それが行き過ぎで爆笑の珍作となっても映画秘宝で骨を拾ってくれるだろうから無問題、だと思う)。人間に凝るならCGに凝るなCGに凝るなら人間に凝るな。基本的にはイイとこどりはできないのよ。
 
結論、見るならDVD推奨。そして最初にパル作品をみてから、がオススメ。時は金なりっていうけれども、たまには無駄遣いしてむなしさにひたるのも悪くはないでっせ。トモダチと突っ込みいれながら見るべき、ではありますけれども。

なにはともあれ日本はゴジラの国だから大丈夫HAHAHA!!というスピルバーグの陽気なアメリカンジョークを堪能しませう。あははははははははは。

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「サイドウェイ」30代未婚男子、これをみずしてなにを見る。 [映画系]

サイドウェイ 特別編

サイドウェイ 特別編

  • 出版社/メーカー: 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
  • 発売日: 2005/07/07
  • メディア: DVD
結婚って、あるいは人生の伴侶とはいったいなんなのか、とは、誰しも考えたことのある命題のひとつに違いない。未婚既婚問わず。あるいは自分の人生ってなんだったんだろう、とか。もう年をとりたくないな、と思う瞬間や若いころはよかったな、と苦笑したりすることもあるだろう。本来、内省と反省と自責の間には暗くて深い川が流れているはずなのだが、だいたい相関関係というか、内省→自省→自責という手順になってしまうようだ。ナット・キング・コールも歌っている。「振り返れば見えてくる。過去の、あやまちが。やり直せるものなら、やり直したい」

この映画は、国語教師をやりつつ小説家を目指すハゲ気味のおっさん“マイルス”(演じるはポール・ジアマッティ。鬱気味が高じて被害妄想にまで発展している様が泣かせる)が親友の二流俳優で女好きの能天気なおっさん“ジャック”(トーマス・ヘイデン・チャーチはこの演技でアカデミー助演男優賞にノミネート。むべなるかな。)の婚約を祝い、一週間後に結婚を控えた土曜日、独身最後の日々をマンキツさせるべくワイナリーを巡る旅に出た、その道中一週間の物語である。(監督:アレクサンダー・ペイン「アバウト・シュミット」)

小説が出版されるかもしれないマイルス(ハゲ気味)+来週にはいいとこのお嬢さんと結婚予定のジャック(女好き)というまったく交差しない二人の期待を乗せて車はすすみ、ワイナリーをたずねひたすらワインに淫する…はず。だが、ワイン好きなのは実はマイルスだけで、ジャックは正直呑めればいい。どっちかというと道中で知り合う女と最後の週末をどう過ごすか、その数に命かけているような有様。マイルスは離婚の傷をひきずっていて、ジャックのように気軽に女とはよろしくできない。レストランで旧知のいい女マヤ(ヴァージニア・マドセン)と再会し、彼女が離婚した身であることを知っても、そして魅力的な彼女が自分に気があることを知りつつも、手出しできない。じくじくする駄目男マイルスが前妻が再婚すると知って荒れているときも、もう一人の駄目男ジャックはマヤの親友(サンドラ・オー。ペイン監督夫人っていうか、アカデミー賞のときあんなに仲よさそうだったにもかかわらず離婚しちったよ。)とセックスすることを忘れない。結婚することを隠している嫌なヤツなのに、ジャックのなんと魅力的なことよ。マイルスも徐々にマヤと親密になっていくが、あるとき、ふとジャックが結婚することをマヤに漏らしてしまい、激怒したマヤは去り、ジャックは女に逆襲され鼻の骨を折られてしまう。それでも懲りないジャック。一週間は過ぎ、ジャックは無事(?)式に臨む。マイルスはジャックの結婚式で、幸せそうな前妻を見、そして…。

この映画がすごいのは鬱的要素満載なのに、陰の要素が画面上からは感じられないということ。徹底したコメディとなっている。おっさんたち二人はどちらもいい年していながら、先行きが不透明で不安定。マイルスは小説の出版を断られ続け、ジャックも俳優としてイマイチぱっとしないテレビ俳優(アメリカではテレビと映画の間にはマリアナ海溝ぐらいの断絶がある)として展望の見えない立場にいるし。それでも珍道中というか、その無鉄砲な明るさゆえにある種の切実な切なさを感じる。やんちゃなおっさんたちは可愛らしいが哀切である。特にいいのがジャックを演じるトーマス・ヘイデン・チャーチ。フルチン全開でゴルフ場を走り回るなんて鬱的素因から考えればかなり発狂率が高いが、彼の本質が底抜けに能天気なために、見ているこちら側が眉間にしわがよったりすることがない。そういや女優男優問わず脇役も丸出し率高し。まあある意味マイルスも丸裸になっているのと同じ状況(精神的に)だが。
 
とにかくおっさんが(いろんな意味で)裸になる映画といえるかもしれない。それがとても爽快で痛快だ。人生、年取るにつれマルダシになることが少なくなってくる。「若いころはよかった」などと愚痴ってしまってそのこと自体にまた落ち込んだり。そんな後ろ向きレイドバックな守りの姿勢に「NO」と豪快に笑うおっさんたち。大人にならなきゃわからない楽しさってあるんだぜベイベー。そして挫折を知り人生の機微を理解し、主人公たちにそっとよりそう女の年輪が好ましい。明確なハッピーエンドもなく、でてくるのはトウのたった人間ばっかりだけれども、しみじみ臓腑に染み渡るようにいい映画だと思う。それはこの映画から受け取る人生への肯定したイメージ、つまり「年とることも悪くない」というメッセージが画面上に横溢しているからだろう。これがなんともいえず心地よい。下り坂にはいって、足掻いてもいいしあきらめて落ち込んでもいい。それでも忘れちゃいけないのは、年をとったらとったなりの味わいがある、ってこと。この映画の中で盛んに出てくるワインのようにそれは芳醇で馨しい薫りをはなつ。苦味が甘さを引き立てるように、ハゲようがおっさんになろうがいいではないか。その味わいを知っているかどうかがよい伴侶、人生のパートナーを見つけられるかどうかにつながって来ると私は思う。なんだか自分が肯定されたようなすがすがしい気持ちになることができる。これはそういう映画。

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84歳ラッパーの声を聞け!交通地獄と借金地獄、アナタならどっち!? [音楽系]

交通地獄そして卒業

交通地獄そして卒業

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: Pヴァイン・レコード
  • 発売日: 2005/11/18
  • メディア: CD
「三千マ~~~~ン」
と明るく明朗な声で歌ってみた。なんのことやらというわけでご紹介するのは「交通地獄…そして卒業」。 この坂上弘さんは御年84歳。84歳の年齢を吹き飛ばすかのごとくラップ。84歳とラップではどうしても間に入るのは昨日の残りのおかゆだか雑炊だかというノリなのだが、まずは聞いてびっくり。のどを震わせるような美声にまずノックアウト、凄惨な事故にあった内容をダイレクトにラップするそのライム(バターン、キュゥ)にノックアウト、さらにさらにちょっとズレたリズムに飄々とのりまくる「三千マーン」にボディブローでスリーカウントとられて終了。こんなすごいのは滅多にない。ぜひ聞くべし。なにがなんだかわからないだろうけど、だがそれがいいのだ。 個人的にはこれでもう言うことはないのだが、このまま終了としてしまうのはあまりにも不親切なのでかいつまんで説明。この歌は、坂上さんの実体験を基にしている。「甲州街道をバイクで進み、そよ風きって走っていると」突然トラック野郎に「追突されてOH!NO!アタマからまっさかさまに地面にぶつかりバターン(キュゥ)」地獄の閻魔様の台帳には名前が載ってないので生き返って、リハビリに苦労したけど「保険慰謝料三千万!」手にして「花のキャバレー一直線」そこで「見目麗しきリンダちゃーん」と出会うが…「巻き上げられてOH!NO!」という内容である。文字にするとかなりすさまじいことになっているが、「からん~からん~困ったね~」と歌のほうはいたって暢気。「あーっという間にすっからか~ん」なんて聞くとなんとなく楽しそうな気すらするから不思議だ。この「すっからか~ん」には坂上マジックとでもいうべき呪文効果があり、なんとなく気がつけば「すっからか~ん」と口ずさんでいたりする。まさに魔力あふれる傑作CDと言える。 曲順は以下のとおり。 1、交通地獄 2、卒業 3、やまと寿歌 4、恋しのアンヂェラ 5、借金地獄 6、交通地獄 Remix 7、卒業(ライブ・バージョン) このうち、必聴はなんといっても「卒業」と「借金地獄」。ちなみにこの「卒業」は持ち歌の「交通地獄」よりも評判がよい。だってねえ、80過ぎた爺さんが「センセイ!アナタはかよわきオトナの代弁者なのか」と声を震わせ絶叫するんだもの。それがいいンだな。「信じられぬ大人との~」という歌へ“おめえはオトナじゃねえのか”なんていう無粋なツッコミを鏡の如く跳ね返す笑顔。
↓裏ジャケット参照。
年寄りじみて物のわかったような発言されるよりは、何歳でも不良やってるような姿に、やっぱり惚れますねえ。男とはかくあるべし。 「借金地獄」は“シャッキンシャッキン”というリフレインが耳から離れなくなること必須。気がつくとシャバダバダーなんて歌っていたりして。脳への染み付き効果絶大。 84歳の挑戦、アナタは受けて立てるか否や。
視聴したい方はコチラ
※先日、新宿タワーレコードで行われた坂上さんのイベントへ参戦してきたのですが、いや実にお元気。パワー全開で歌っておられました。店全体が歓喜で震えたように感じたのは、私だけではない、はず。
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