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怖~い、とても怖~い女の確執? [日本史]

怖~い、とても怖~い女の確執?

おほほほほ。。。
『新しい古代日本史』サイトから
出向してきたので
ござ~♪~ますわ。
デンマンさんが
出ろっつんですのよ!
あたくしは嫌~♪~だ
イヤ~♪~だと
言ったんでござ~♪~ますのよ。
でも、出ないのなら、
バンクーバーへ来ても
追い返すっつんですよ。
あたくし、今年の夏休みには
ぜひともバンクーバーへ行って、
レンゲさんのようにデンマンさんに
甘えたいんでざ~♪~ますのよ。
うひひひひ。。。。
あらあぁ~~ごめんなさいね、
個人的なことを申し上げてしまって。。。
今日はね、怖~い、とっても怖~い女の確執について
デンマンさんが書いてくれるはずですわ。
デンマンさん、この程度のご紹介でよろしいでしょう?
おほほほほ。。。。

まあ。。。仕方ないですよね。
どうでも良いことを並べ立てて、全く紹介になっていないんですが、
卑弥子さんの事だから、この程度で上等でしょう。

とにかく、今日は奈良時代の怖い怖~♪~い女の確執について書いてみようと思います。
実は、6月9日にRealogで書いた記事(『愛と憎しみの原点?PART 3』)に更紗さんから次のようなコメントをもらったんですよ。

この記事の全文を1ページで読みたい人は次のリンクをクリックしてください。
『愛と憎しみの原点?』

不破内親王と安倍内親王の両方が、
お互いがお互いの歌を万葉集に載せないように、
大伴家持に圧力をかけたのかもしれませんね。

女が喧嘩する時は、絶対にタイマンをはりませんから。
必ず周囲を巻き込んで、「私の味方をしなさい!」って言って、
複数VS複数の戦いにする傾向があるんです。

大伴家持もそれに巻き込まれて、
双方から

「私の味方になりなさい!
そして、あの女の歌を万葉集から削除しなさい!」

。。。って言われていそうです。

by 更紗 2006/06/13 18:23


更紗さん、コメントありがとう!
面白い解釈ですよ!
またインスピレーションが
湧いてきましたよ。
記事が書けそうです。
いつも貴重なコメントありがとね。

ところで、“タイマンをはる”というのは
どういう意味ですか?
僕は使った事がないんですよ。
“怠慢になる”ということですか?

もし時間があったら説明してくださいね。

17日か19日に、このことで記事を書きたいと思います。
更紗さんのコメントを使わせてもらうので、よろしく。

とにかく貴重なコメント感謝してま~♪~す!
じゃあね。

Thanx millions!

by デンマン 2006/06/14 12:46




タイマンとは、「一対一の喧嘩」の意味です。
あまり上品な言葉ではないので、
辞書には載っていないかも…(^^;)



by 更紗 2006/06/14 14:11


僕が使っている三省堂国語辞典には載っていませんよ。
初めて目にしました。
そうなんですか。。。
「一対一の喧嘩」ねぇ~~
方言なのですかねえぇ~~?

僕は生まれは埼玉県なんですが、そういう言い方はなかったですよ。

もしかすると、最近流行の俗語なんでしょうか?

とにかく興味深いことです。
勉強させてもらいました。
このことでも記事が書けそうですよ。
うへへへへ。。。。



とにかく、すばやい返信ありがとね。
感謝で~♪~す!
じゃあね。

by デンマン 2006/06/15 14:48

『愛と憎しみの原点?PART 3』のコメント欄より

そういうわけです。
では、怖い女性の一人を紹介します。

不破内親王(ふわないしんのう)



生まれは723年(養老7年)頃で
795年(延暦14年)頃亡くなったとみなされている。

聖武天皇の娘。
母は県犬養広刀自。
姉は光仁天皇の皇后になる井上内親王。
同母弟に安積(あさか)親王がいる。
孝謙天皇の異母妹。
塩焼王の妻。

739年頃、天武天皇の孫で新田部親王の子である塩焼王に嫁ぎ、志計志麻呂(しけしまろ)・川継(かわつぐ)の二人の息子を産む。
ただし、一部には両者を同一人物とする説もある。

757(天平宝字1)年、夫の塩焼王は臣籍降下して氷上真人塩焼と改名。

764年に夫の塩焼王は恵美押勝の乱に加わったとして処刑される。

769年、県犬養姉女、忍坂女王、石田女王らと共に称徳天皇を呪詛し、息子の志計志麻呂(しけしまろ)を皇位に就けようとしたとして、厨真人厨女(くりやのまひとくりやめ--“台所の下女”という意味)という名に改名された上、平城京から追放された。
志計志麻呂は土佐国に流罪となる。

771年にそれが冤罪(えんざい)だったと判明し、帰京する。

782年、息子の川継が謀反(氷上川継の乱)を起こして伊豆国に流されたのに連座し、不破内親王も淡路国へ流される。

795年、淡路から和泉国に移されたのを最後に、史料上での消息が途切れる事から、この頃に亡くなったものと思われる。

SOURCE: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

不破内親王の姉である井上内親王は哀れな女性で非業(ひごう)の死に方をしています。
773(宝亀4)年、難波内親王(光仁天皇の姉妹)を呪詛した罪で、大和国宇智郡の没官の宅に息子の他戸王と共に幽閉されました。
しかし、井上内親王母子が難波内親王を呪詛すべき理由は見当たらないのです。
藤原式家の藤原百川と山部親王(後の桓武天皇)らの謀略に陥れられたと見る歴史家が多い。
775(宝亀6)年、幽閉先で他戸王(25才)と共に変死したことになっていますが、
僕は暗殺されたと見ています。

不破内親王の弟である安積親王は17才の時に藤原仲麻呂に毒殺されました。
この事については次の記事にかきました。
『性と愛の影に隠れて---万葉集の中の政治批判』

とにかく同母姉も同母弟も不幸な死に方をしています。
不破内親王はどうだったのか?

実はどのように亡くなったのかは記録に残っていないんですよね。
少なくとも795年には生きていたという事が分かっています。
その年に亡くなったとすると、72才です。
つまり、けっこう長生きをしたんですよね。

更紗さんのコメントの中に“不破内親王姉妹(安倍内親王の異母姉妹)も悪霊扱いされています”と書いてあります。

井上内親王も不破内親王も恨みを呑んで亡くなったようなので、“悪霊”扱いされるのが分かるような気がします。
しかし、この二人の女性に関する本を読んでゆくと井上内親王に対しては同情的でも、不破内親王に対しては、けっこう辛らつな見方をしている歴史家がかなり居ます。

つまり、殺された姉と弟とは異なり、不破内親王は、かなり“したたか”な女だったのではないか?
とにかく、この当時の朝廷には権謀術策を弄する輩(やから)がたくさん居ました。
しかも、陰謀が渦を巻いているような状況でした。

事実、この不破内親王は次のような事件に巻き込まれているのです。

1) 天平14(742)年10月、夫の塩焼王が伊豆へ配流された事件。

なぜ塩焼王が流罪になったのかは明記されていない。
この事件は巫蠱厭魅(ふこえんみ: まじないをして人を呪うこと)であって、その主犯に不破内親王を想定している歴史家が居ます。

2) 天平宝字元(757)年7月、橘奈良麻呂の変の際に塩焼王が皇嗣候補に担がれた。

しかし、塩焼王は、危うく連坐を免れた。
この事件をきっかけに、塩焼王が皇位への望みを捨てるように氷上真人という姓をもらい、臣籍降下させられた。 不破内親王も何らかのとばっちりを受けた可能性がある。

3) 天平宝字8(764)年9月の恵美押勝の乱に係わっていた。

この乱で、塩焼王(氷上真人塩焼)が恵美押勝に「今帝」と担がれた。
塩焼王は斬殺される結果となった。
不破内親王も夫の行動に従っていたと考えられる。



興福寺の国宝・阿修羅像
後年、称徳女帝になる阿部内親王が16才の時に作られた像。
この時、16才の内親王がモデルになったと僕は信じています。
詳しくは次の記事を読んでください。 『日本女性の愛と情念の原点』


4) 神護景雲3(769)年5月の巫蠱事件。

県犬養姉女(あがたいぬかいのあねめ)らが不破内親王のもとで氷上志計志麻呂(しけしまろ)を皇位に就けようとする巫蠱厭魅を行った。
称徳女帝の髪を盗んできて、佐保川の髑髏に入れて呪詛するという、おぞましいものであった。
この事件によって、不破内親王は「厨真人厨女(くりやのまひとくりやめ)」と名前を改めさせられて京外追放された。
志計志麻呂は土佐に配流となった。

5) 延暦元(782)年閏正月、息子の氷上川継(かわつぐ)の乱。

氷上川継は伊豆へ流罪。
母親の不破内親王は『養老律令』に「謀反人」の母に連坐規定がないにもかかわらず淡路に配流となった。

このように不破内親王は5件もの事件にかかわっているのですね。
すべてが冤罪(えんざい)と見るには無理があるというわけです。
最後の事件など、『養老律令』に「謀反人」の母に連坐規定がないにもかかわらず淡路に配流となった、という事実がある。
つまり、不破内親王は直接事件に関わっていたのではないだろうか?という疑問が頭を持ち上げてきます。

これだけの事件に、不破内親王の名前が出てきて、しかも、少なくとも72才まで生きたという事は、彼女が相当にしたたかな女ではなかったのか?
僕も、不破内親王を調べながら、だんだんそのような気になってきましたよ。

しかし、実際はどうだったのだろうか?
不破内親王は、事件に直接関与した、したたかな女だったのだろうか?
それとも、不本意にも陰謀に巻き込まれた哀れな女にすぎなかったのだろうか?

不破内親王は阿倍内親王に毛嫌いされた!

塚野重雄さんが『不破内親王の直叙と天平十四年塩焼王配流事件』の中で、この事件を巫蠱厭魅(ふこえんみ)だと見て、その主犯に不破内親王を想定しています。
天平14年に起こったこの事件も皇位継承に絡んだものです。
当時、聖武帝の唯一の息子であった安積親王を差し置いて阿倍内親王が前代未聞の女性皇太子となったのです。
安積親王の同母姉である不破内親王が憤りを覚えて阿倍内親王を厭魅呪詛(えんみじゅそ)したと言うのです。

不破内親王の気持ちは良く分かりますよね。
この当時生きていたら、あなたも僕も絶対に不破内親王の肩を持つはずです。
なぜなら、最近の日本の女帝問題を考えてみてください。

現在、天皇の跡を継ぐ男子が居なくなるので女帝問題が騒がれているんですよね。
もし、天皇の跡を継ぐ男子が皇室に居れば、これほど女帝問題が現在の日本で話題になる事はないでしょう。
天皇継承権を持つ男子が居れば、その男子が将来、天皇の跡を継げば良いのだから、今のように女帝問題がマスコミで取り上げられるはずがないのです。

ところが、天平14年当時、天皇継承権を持つ男子が居た。安積親王です。
だから、何も問題がなかったはずでした。

ところが、安積親王が皇太子にならずに、阿倍内親王が前代未聞の女性皇太子となった。
これでは、問題になるのが当たり前ですよね。

たとえば、同じ状況が明治時代に出現したと想定してみれば良く分かりますよ。
明治のあとは大正ですよね。
その大正天皇は、あなたも知っていると思いますが、精神に異常をきたして大正時代の後年には、当時の皇太子(後の昭和天皇)が摂政になって政務を見た。

僕が子供の頃、祖母が笑い話として話してくれました。
居並ぶ大臣の前で天皇が詔勅を読むときには、卒業式のときに渡される証書のような紙を開いて読むわけです。
大正天皇は一応字が読めるから、一通り読んだそうです。
ところが読み終わったあと、その紙を丸めて、望遠鏡のようにして目に当て、居並ぶ大臣たちを見渡したというのです。
もちろん、僕の祖母がその場に居たわけではありません。

でも、そういう話が庶民の間にまで伝わって、僕の祖母の耳にも入った。
それほど、この大正天皇には奇行があったそうです。
おそらく、精神的に問題がある人だということは大正天皇が皇太子になる以前に分かっていたでしょう。
でも、そうだからといって女性である内親王を皇太子にしたら、明治時代でも大問題になったでしょうね。

ところが、天平14年には安積親王という男子継承者が居るにもかかわらず阿倍内親王を皇太子にしてしまった。
これでは、問題にならない方が不思議ですよね。

誰がこのような無茶苦茶な事をしたのか?
それは次の系図を見るとはっきりと分かります。

まず、697年に軽皇子(かるのみこ)を文武天皇として即位させたのは、祖母の持統女帝です。
持統天皇はその5年後に亡くなります。

そのあとで、皇后でもなかった草壁皇太子妃の阿閉(あべ)皇女が707年に元明天皇として即位します。
714年には14才の首(おびと)皇子(後の聖武天皇)を皇太子に立てます。
また、715年には皇后位でもない未婚の氷高(ひだか)皇女を即位させて元正天皇とします。
さらに、716年には安宿媛(あすかべひめ: 後の光明皇后)を首皇子の妃としたのです。
この一連の事をプロデュースしたのは、誰あろう藤原不比等です!
その黒幕が720年に62才で亡くなります。

藤原不比等の死後は、政治的にも人生の上でもパートナーである妻の橘三千代が夫の遺志を継いで、
727年に孫の基(もとい)皇子を生後1ヶ月あまりで皇太子にします。
729年には三千代の娘の安宿媛(光明皇后)を皇族でもないのに、つまり臣下の出の最初の皇后にしています。

橘三千代が亡くなったあとでは、小心で神経質な聖武天皇に代わって光明皇后が主導権を握ります。
738年、光明皇后は娘の阿部内親王を先例のない女性の皇太子としたのです。
749年には、その未婚の阿部皇太子を即位させて孝謙天皇にしました。

つまり、上の系図は持統天皇と、藤原不比等と橘三千代が描いた“天皇家の設計図”だったのです。
その設計図通りに天皇家を構築してきたのです。

この系図の中の最後の人。
その人こそ悩み多き阿部内親王なのです。
2度天皇の位に就(つ)きました。
その2度目の天皇の名が称徳天皇です。

阿部内親王がモデルになって造られたこの阿修羅像に、僕は阿部内親王の苦悩を見ますね。
この16才のときに阿部内親王は自分が生涯結婚できないという宿命を負わされていた事を母である光明皇后から聞かされて充分に知っていたんですよね。

阿部内親王にすれば、何も好き好んで皇太子になったわけではないんですよね。
16才の乙女心は充分すぎるほど苦悩に悩まされてきた。
そういうわけで、この乙女は後年、仏教に心の救いを見出す事になるのですが、
道鏡に近づきすぎたばっかりに、後年、碌(ろく)な事を言われなかった。

“スケベ坊主とエロ女帝”というように庶民の間に伝承される事になってしまった。
詳しい事は次の記事を読んでください。
『日本女性の愛と情念の原点』

しかし、僕は個人的には、道鏡も阿部内親王もすばらしい人だと信じています。
あまりにも潔癖すぎ、理想を求め、正論を吐いたので、その後、主導権を握った藤原氏主流派(藤原百川や藤原永手)に憎まれてしまった。
(権力を握ったという意味で主流派です。)
そのような訳で、歴史的には、この藤原主流派に貶(おとし)められてしまった。

阿部内親王は上の設計図に基づいて登場したに過ぎない。
しかし、母親違いながら、同じ父を持つ不破内親王にとっては、こういう事は面白くない。
そういうわけで、不破内親王は巫蠱厭魅(ふこえんみ: まじないをして人を呪うこと)までして姉さんである阿部内親王を呪う。

現在の我々の眼から見れば、上の系図でも明らかなように、藤原氏が横暴の限りを尽くしたわけですよね。
だから、不破内親王が阿部内親王を呪う気持ちが良く分かります。
(不破内親王には藤原氏の血が流れていません。)

しかし、阿部内親王にしてみれば、いい迷惑ですよね。
彼女が好き好んで皇太子になりたくってなったわけじゃない。
呪うなら光明皇后を呪うべきですよね。
そうなったら、今度は光明皇后が言うでしょうね。
“あたしが悪いんじゃないわよ、母上が、こうしなさいと言ったからしているだけよ”

しかし、不破内親王は表面的なことしか見ていない。
姉の阿部内親王だけしか目に入ってこない。
姉妹の間の愛憎とは、そういうものだと思いますよね。
血がつながっているだけに憎悪が阿部内親王に集中してしまう。

阿部内親王にすれば、身に覚えのない“悪行”で恨みをこうむっているわけですから、頭にきますよね。
そういうわけで不破内親王は毛嫌いされる。
詳しい事は歴史的に判明していないのですが、この天平14年の事件によって、主犯の不破内親王は「親王」の名を削られ、塩焼王や女孺(地位の低い女官)らは従犯として流罪にされた。
そういう事件です。

神護景雲3(769)年5月の巫蠱事件では、県犬養姉女(あがたいぬかいのあねめ)らが不破内親王のもとで氷上志計志麻呂(しけしまろ)を皇位に就けようとする巫蠱厭魅を行った。
称徳女帝(かつての阿部内親王)の髪を盗んできて、佐保川の髑髏(ドクロ)に入れて呪詛するという、おぞましいものだった。

この事件では、不破内親王は「厨真人厨女(くりやのまひとくりやめ)」と名前を改めさせられて京外に追放された。
つまり、“台所で働く下女”という名前に変えさせられたと言うわけです。

姉妹喧嘩も、ここまでやると滑稽になってきますよね。
不破内親王に対する永年の冷遇は、このような事件が原因だと言われています。

実際、史実を見てみると、不破内親王が初めて官位を授かるのが、天平宝字7(763)年です。
実に41才の時で、親王位としては最低の四品です。
ちなみに、同腹の姉の井上内親王は天平19(747)年、31才の時に二品を授かっています。
待遇の違いが歴然としています。

僕は個人的には、“姉妹喧嘩”だと見ていますよ。
どちらの女性にも同情します。
阿部内親王も不破内親王も陰謀の渦巻く時代の落とし子です。
聖武天皇の娘として腹違いに生まれた女同士の宿命に翻弄されてしまった。
そう思えませんか?

女の確執を離れて見たら。。。?

阿部内親王が皇太子になった事に対して安積皇子を次期天皇にしようとする動きは不破内親王のグループの他にもあったのです。
当然のことですよね。
上の系図を見るまでもなく、この当時の事件を歴史的に読んでゆくと、藤原不比等の遺志を引き継ぐ主流派が横暴の限りを尽くしていることが分かります。

藤原広嗣の乱(740年9月3日に挙兵)のあと、光明皇后の庇護のもとで頭角を現してきた藤原仲麻呂(藤原南家の祖・武智麻呂の次男)の後見する阿部内親王と、橘諸兄の後見する安積(あさか)親王に北家房前の三男八束(母が橘三千代の子である牟漏女王で諸兄の甥に当たる)と大伴家持もグループとして結束し、どちらを次の天皇にするか争いが生じていたのです。
詳しい事は次の記事を読んでください。
『日本女性の愛と美の原点』

そういうわけで、客観的に見れば、安積親王を皇太子にするのが正論だと信じる人たちがたくさん居た事だと思います。

不破内親王は同腹の姉のおとなしい井上内親王に比べると、性格的にはいろいろと問題があったかもしれません。
しかし、5つの事件に巻き込まれながらも70代まで生き延びたという事は、藤原主流派にとっては“反逆児”ではあっても、歴史的、客観的に見れば、基本的には間違った事はやっていないという事だと思います。
つまり、当時でも藤原氏の横暴に対する“反抗”と見られて、同情の余地があると見られていたのではないか?
少なくとも、影で不破内親王に声援を送っていた人たちが居たはずです。
そうでもなければ、これまでの事件に首を突っ込んで、70代まで生きる事など到底考えられません。

安積親王を皇太子にすべきだと主張する大伴家持のような人たちが居たという事がその何よりの証拠だと思いますね。

ところで、この大伴家持が万葉集を編纂した編集長だという事になっていますが、
万葉集には不破内親王の歌も阿部内親王の歌も載ってないですよね。

『続日本紀』巻第15には天平15年5月5日の条に阿部内親王の歌が3首(続紀2~4)載っています。
この時の宴で、阿部内親王は自ら五節を舞ったということです。

不破内親王の歌も万葉集にはないですよね。
河内女王(かわちのおおきみ)の歌が万葉集に1首載っています。
この女性は天武天皇の孫であり、高市皇子の娘です。
神護景雲3(769)年に起こった“不破内親王事件”に連座したと見られており、処罰されたのですが、宝亀4(773)年に不破内親王とともに官位に復しています。
この女性の歌が万葉集に載っていて、張本人の不破内親王の歌が載っていない。

つまり、大伴家持も不破内親王と阿部内親王の諍(いさか)いを“女の確執”と見たのではないか?
そういうわけで、喧嘩両成敗として二人の歌を万葉集に載せなかったのではないか?

もし、このことで、あなたがもっとうまい説明ができましたら、コメントをお願いします。
 
このお願いに応じて更紗さんが上で紹介したコメントを書いてくれたと言う訳です。

僕は更紗さんのコメントに触発されて、大伴家持が女性に対して、特に上の16才の阿部内親王のような“乙女”に対してどのようなイメージを持っているのか?
ネットで調べ始めたのです。

大伴家持には次のような歌があります。

もののふの八十をとめらが汲みまがふ

寺井の上の堅香子の花

堅香子の花(カタクリ)が詠まれているのは、万葉集では唯一この作品のみだそうです。
この歌の中で大伴家持は乙女をイメージしています。

調べていたら、次のようなすばらしい解釈に出会いました。
『堅香子の歌について』
この中から引用させてもらいます。

私事になるが'96年に友人に招かれて秋田へ旅行した。
そのおり刺巻の水芭蕉の池で、年配の女性がおひたし用にと、
束ねたカタクリの茎を売りに来た。
とにかく私は驚いた。カタクリを食うという発想がなかったからである。
(勿論買った。ついでに言うとホウレン草よりねばりと甘みがあって美味であった)。

ついで西木村のカタクリ自生地に案内してもらった。
ひっくりかえるぐらい驚いた。
まるでレンゲ畑なのである。
小さな丘二つにカタクリが群生している。



関西でたかだか数本のカタクリしか見たことのない私は、
一生分以上のカタクリを見た気分になった。
関西では宝物のカタクリがここではレンゲ。
意味もなく大きな笑いがこみ上げて、ゲラゲラと笑いだしたことを今もよく覚えている。

では「八十をとめらが汲みまがふ」とは何なのかである。
私は上三句は堅香子の花の形容であると考えている。
堅香子は群生する。
その花は紅紫色で下を向いて咲く。
水を汲む時、女性たちは俯く。
この群生した堅香子の風情自体が「八十をとめら」にほかならないと私は思う。

口訳すると

たくさんの乙女たちが入り乱れて水を汲む、

そんな風情で咲いている寺井の上の堅香子の花よ


というようになる。第三句までは第五句の堅香子の花を修飾するものであって、
序詞の役割を果たしている。
家持は群生している堅香子の一本を手折ってこの歌を詠んだ。
群生している花のなかで作った歌である。
紅紫色の花を表現するのに「をとめら」の詩句を斡旋するのは
家持にとってはさして難しくはあるまい。
すでに引用したように「くれなゐにほふをとめらし」(4021)とも家持は詠んでいる。
また家持は寺井の水を汲む乙女たちを日常的に見ていたであろう。
堅香子の群生をみたとき、その美しさを表現するのに、
水を汲むさいに俯く女性の風情でもって比喩したと私は考えている。

乙女らが居ないという点で私は身崎説に近い。
しかし私は幻想とは取らない。
あくまで堅香子の花の美しさを表現する比喩として理解するものである。
従来の説はいずれも上三句は、第四句の「寺井」にかかる言葉として理解している。
しかし私は第五句の「堅香子の花」に直接かかる言葉と考えている。
第四句は堅香子の場所を示すために挿入された句とみるわけである。

たくさんの乙女たちが実際に水を汲んでいたら堅香子の花は踏み潰されるだろう。

注: 写真を加え、読みやすく改行しています。

この「関西の私」がどなたなのか僕は知らないのですが、すばらしい解釈だと思いました。

僕はこの歌に、乙女(ひいては女性一般)に対する大伴家持の感性を見るような気がするんですよ。
大伴家持という人の中に、僕はどちらかと言えば歌人というよりも武人を見ていました。
つまり、藤原氏の横暴に断固として立ち向かう男らしい姿勢に僕の権威に対する反感と共鳴するものがある。
僕はその点で、歴史上の人物としての大伴家持に共感を持ちます。

しかし、そういう無骨な大伴家持が歌を詠む事ができたのは、まさに上の歌の中に良く表れているように、乙女に対する、また自然の草花に対するこのみずみずしい感性ではなかったのか?

また家持は寺井の水を汲む乙女たちを日常的に見ていたであろう。
堅香子の群生をみたとき、その美しさを表現するのに、
水を汲むさいに俯く女性の風情でもって比喩したと私は考えている。

「水を汲む少女」 by リオス

平野政吉美術館には、
秋田の豪商・平野と親交があったエコール・ド・パリの日本人画家・藤田嗣治の作品が集めてあるが、この「水を汲む少女」と題する絵はリオス(スペイン語で神)と名乗る無名画家の作品。

この水を汲む少女と上のカタクリの花を見てください。
そして、このスペインの乙女の代わりに奈良時代の大和撫子を思い浮かべてください。
大伴家持の感性が見えてきませんか?

今度は、称徳女帝(かつての阿部内親王)の髪を盗んできて、
それを川原で拾ってきた死人のドクロに入れて呪詛するという、
おぞましい光景を思い浮かべてください。

不破内親王が実際に手をかけていないとしても、その場で見ていたことでしょう。
この光景は大伴家持の感性ではとても受け入れられないものだと思います。

一方、大伴家持は阿部内親王に対しては、その哀れな宿命に同情していたかもしれません。
しかし、この内親王が女帝として権力を握る事は、藤原氏の横暴に断固として反対していた彼には当然受け入れがたい事だったでしょう。
しかも、腹違いであれ、実の妹に対して“台所で働く下女”という汚名を着せて京外に追放した。
この光景も大伴家持の感性ではとても受け入れられなかったでしょう。

要するに、大伴家持がこの二人の女性の歌を万葉集に載せなかったのは、
彼の感性がそうさせたのではないだろうか?
僕はそう思うわけです。

更紗さんの女の性(さが)による解釈も面白いですが、
僕は大伴家持の歌人としての感性により注目したいのです。
あなたはどう思いますか?

では、あなたのコメントをお待ちしています。

ィ~ハァ~♪~!



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