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番外:西都原古墳群=西都市大字三宅(宮崎県)日本の歴史の先端は [岬めぐり]

 番外編を入れるときに、いちいちムリヤリに「岬」と関連づけようとこじつけをする必要もないのだが、ここはまた「日本の歴史が始まる先っちょ」ということもできる。
 西都原の古墳群には、少年の頃から一度行って見たいと思っていた。これはホントなので、こどもの頃から古代史には興味があった。「○○原」と書いて「○○バル」と読ませるのは、新知事の名にみるようにこの辺りでは普通らしい。ここも当然「サイトバル」なのだが、この地に憧れていた少年の頃には、この古墳群がある町の名は「妻」という名前だったはずである。なくなったのは町の名だけではなく、ここを走っていた鉄道もなくなっていて、その妻駅があったところは宮交のバスセンターになっている。
 宮崎空港から西都原へは、1時間に1本くらいは走っているので、まず1日フリー切符を買ってまっすくここへやってきた。この切符は1日何回もどこまでも乗れるので、この日は空港→西都→宮崎駅前→油津とそれぞれ1200〜1500円くらいする路線を3回も乗って、それで2000円だから随分トクをした。こんなことで喜んでいるようでは、でんでんむしも器が小さい。だが、器が小さいといえば、宮内庁もそうだ。

 バスを降りて、宮交タクシーに乗り換え、まず西都原の博物館に向かったが、その途中には辺りではとくに大きな古墳が二基ある。これが、“陵墓参考地”に指定されているので、延々と柵で囲まれた古墳の脇を進む。一帯は広いきれいな道がぐるりと整備されていて、畑や草地のそこここに大小さまざまの古墳が点在している。一面に菜の花が植えてあるが、花は桜の季節に合わせるようにしてあるので遅いのだと、運転手さんが教えてくれた。畑の真ん中には、埴輪の家のような大きなあづまや風の建物がある。あれはなんだと聞けば、「植樹祭の時に両陛下がお越しになったのです」という。

 天皇家が、半島から馬に乗ってやってきた征服王朝の末裔であり、まず九州でその拠点を固め、それから神武東征伝説にいうルートで畿内に攻め込み、大和政権を樹立した、というのは日本史の認識のなかで広く支持されている。けれども、それが学術的に裏付けられた定説として確立しているわけでは必ずしもなく、常に異論や新説や我流の解釈をのさばらせていて、はっきりと結論が出ないままで、しかし、“なんとなくそうらしい”、“ひょっとしたらたぶんそうかもしれない”、ということになっている。それもこれも、たいした根拠なしに江戸時代の資料をもとに日本中の古墳に、天皇陵の比定をしたうえに、そうでないところにも大雑把に“陵墓参考地”という菊のカーテンをかけてしまい、研究者の手出しがまったくできないようにしてしまったからだ。
 このため、戦前は皇国史観から皇室は神聖視されて祭り上げられ、戦後はその反動から神話を教えることもなくなり、日本史の研究からは皇室関連はタブーとなり、邪馬台国や卑弥呼などの決して本筋とは言えない部分でヒートアップするくらいしか、芸がなくなってしまっている。

 学校で学ぶ日本史も、日本という国の始まりについてはきわめて曖昧模糊として、これではこどもが興味を持てるわけはないし、先生もわけがわからず、しかたがないので石器時代から縄文時代になって弥生時代ですよ、と教えている。受験競争に勝ちたい学校が未履修ですっ飛ばせと考えるのも、無理からぬことである。そのくせ、アベちゃんの内閣になってからとくに、またぞろ“国を愛せよ”などという声が力を得ている。でんでんむしの私見では、およそ政治家が国民に向かって“汝の国を愛せよ”ということ自体がナンセンスであり、尊敬に値する行動・言動をする政治家が揃って、よい政治を行なえば、国を愛する自覚も愛着も自ずからわくものだ。
 そういうでんでんむしだとて、国を愛することにはいっこうにやぶさかではないが、そのためには“この国の成り立ち”をはじめ、もっとさまざまなことを知りたいと思う。
 「日向」というこのくにの名は、まさしく「ひむか」であって、高千穂の峰々が連なるところから東に向かってスロープが広がり、広大な平野をつくりながら、太陽が昇る東の海に向かってゆっくりと落ちていく。
 やはり少年の頃、“なんで天孫降臨の地が宮崎なんだろう”と、疑問に思っていたが、この地に来て地図の形を確かめ、それこそ無数とも言えそうな古墳の群れを眺めてみると、神話の受け入れ難さが、太陽に暖められてぽかぽかと溶けていくようでもある。

 皇族に発言ができないのをいいことに、宮内庁という小役人の集団が、いつまでも“墓守の美名”に隠れて、歴史の真実を覆い隠そうとする姿勢に終始するのは、なぜなのか。そのくせ自分たちだけで修理と称してちょこちょこいじっている。先祖のお墓を大切に守るのは普通のことだが、学術調査と墓あばきとは同じではない。十分な調査もしないで参考地として柵で囲ってしまうのは、隠ぺいとほぼ同義であろう。
 彼らが、いったい何から何を守ろうとしているのか、なにもいわないが想像はできる。その心配や理由や配慮は、もはやどんどん意味がなくなっているのではないか。それを隠ぺいしようとすることは、結局日本という国のためにならず、その古い歴史と成り立ちを知り、国を誇りに思い、そういう国を愛する心までをも、国民から奪ってきたのだ、という論にも大いに理があるような気がする。
 西都原へ来てみて、ますますその感を深くした。

▼国土地理院 「地理院地図」
32度7分5.07秒 131度23分21.31秒
90番外さいとばるこふん-90.jpg
dendenmushi.gif九州地方(2007/02/15 訪問)

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タグ:宮崎県
きた!みた!印(1)  コメント(4)  トラックバック(1) 
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コメント 4

knaito57

「歴史のさきっちょ」はちと苦しいと思っていたらミサキとミササギの音の類似性に気づき、この手もあったんじゃないかと……それはともかく、海に突きでた“崎”の神秘性を崇める気持から“御”がついて“岬”となったというのは説得力があります。
将軍も大名も財閥も富豪も有名企業も大実業家も、およそ権威というのは粉飾や秘匿から形成されるわけで、モトをただせば恥ずべきことこそあれ自慢するような事実はでてこない。神秘のベールをとったら幻滅というのも興醒めだけど、事実から始まらなければホント、歴史も愛国心もありゃしない。やはり“人間天皇”を機に公開・発掘・調査すべきでしたね。それはそうと、この国では王墓・御陵の盗掘なんてことはなかったんでしょうか。
by knaito57 (2007-03-07 14:32) 

xml_xsl

興味をかきたてられる、すばらしいぃ紀行文、に感謝!。
by xml_xsl (2007-03-07 18:17) 

dendenmushi

@そうか、「ミサキ」と「ミササギ」ねえ。そのダジャレでこじつけるのには、気がつきませんでしたねえ。その手があったか…。
わが国でも、古墳の盗掘は盛んに行なわれていました。ひどいときには、お城を造るのに、近在の古墳を覆っている石を全部ひっぺがして使ったりしています。
逆にいうと、陵墓参考地に指定したことで、破壊や盗掘から免れたものもあるのかもしれません。しかし、盗っ人の歴史は指定よりもはるかに古いので、それが保護に役立ったかどうかもわからない。
なにしろ、な〜んも調べていないのだから、御陵のうちどのくらいが盗掘にあっているかもわからないわけでしょう。
宮内庁が恐れているのは、案外、御陵の学術調査してみたら空っぽだった、ということなのかもしれない…。
by dendenmushi (2007-03-08 07:40) 

dendenmushi

@xml_xsl さん、いつもご来訪ありがとうございます。プロフィールアイコン、変わったんですね。おたくのネコちゃんですか、これは。うちにも二人いますけど。
xml_xsl さんのブログは、なかなか写真もきれいで凝っていますが、これは過去の日記?の整理が進行中なんですね。
Java JavaScriptやXMLも一時期勉強しなければ…と思ったときもあるのですが…。やっぱり無理ですねわれわれには。
この岬めぐりも、RSSに入れてもらって光栄です。押切もえ・魚住りえの美女ブログと並んで…(ハートマーク)。
by dendenmushi (2007-03-08 07:56) 

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