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007 鵜の尾岬=相馬市尾浜(福島県)ずいぶん昔に行ったきりになっている潟湖の松川浦を囲む道も切れて… [岬めぐり]

 福島県の海岸線も、茨城県に負けずシンプルで、いちばん目立つのは小名浜の三崎(変換ミスにあらず)と美空ひばりが歌う“塩屋の岬”だけである。だが、それからずーっと地図を北上をしていくと、宮城県との県境に近いところにある、奇妙な出っ張りに気づくはずである。
 普通の岬のようにも見えないが、明らかに北東側の洋上に向かって、突っ張っているが、その内側は陸地ではなく湖のようである。「とにかくここまで行ってみよう」と同行の運転者をそそのかして走り出すことには成功したが、これがまた一般道の長い大変な道中であった。福島県も広い。

 尾浜という漁港のそばで、たくさん並ぶ店の一軒に入り、カニなどの昼食をとった後、松川浦大橋という橋を渡るとトンネルがある。このトンネルが水茎山で、この小さな山が太平洋に落ち込む所が、鵜の尾岬である。
 そこからは、南に向けてまっすぐな道が5キロ以上も続いている。東に茫として広がる太平洋、西には松川浦が昼間なのに朝か夕べの景色のように頼りなげに広がっている。これは、いわゆる潟湖(せきこ)であり汽水湖で、ここに流れ込む宇多川など5本の川のたい積作用と海岸の沿岸流で運ばれて成長した砂州が、このような独特の地形をつくりだした。

 相馬というところは、「相馬焼」でも「相馬盆歌」でも「相馬野馬追」でも、その名は知られている。小さいながら古い町で、その趣は残されているが、それも道理。ここは鎌倉の奥州征伐の功によって相馬氏に領地として与えられて以来、幕末に至るまで連綿とそれが続いてきたという数少ない例のひとつなのだ。この藩唯一の危機は、関ヶ原のときで、どちらにもつかず中立をとおしたため、当然家康からは領地を召し上げられようとするが、そのときの領主の息子が家康に直談判の申し開きをして、なんとか6万石を安堵されたという逸話が伝わっている。
 以来、奥州の小藩として目立たない場所にいて、大過なく見逃されてきたということもあるかもしれないが、戊辰戦争ではその地理的なポジションが災いして、消極的に官軍に対抗せざるを得なくなる。
 ある場所が、今もそこにあるという不思議さを、改めて感じさせてくれた。

 相馬まで行く途中、都路から高瀬川という渓谷を下って浪江町から南相馬に入ったのだが、この渓谷の紅葉の写真があるので、季節は秋だった。
(この「岬めぐり」は、HDに残されたデジタルデータの整理をかねて続けている。この頃はまだデジカメ初期の頃らしく、写真も容量を節約しながら撮っているようで、あまりちゃんと残っていない。)
東北地方(1995/11訪問)

震災大津波の後は行っていないが、最新の地理院地図では、松川浦を囲む堤防の道も切れたままになっていた。もういまでは復旧しているのだろうか。(2015 追記) 2018年の地理院地図でも以下のように、岬から南への堤防の道は切れたままだ。

▼国土地理院 「地理院地図」
37度49分23.55秒 140度59分7.99秒
007うのおみさき-7.jpg
dendenmushi.gif東北地方(1995/11 訪問)

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タグ:福島県
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コメント 1

knaito57

初期のデジカメとは思えないほどいい画像ですね。美空ひばりは“塩屋の岬”に行ったことがなく、布施明が“霧の摩周湖”を歌ったときには霧はなかったそうです。
by knaito57 (2006-10-22 13:08) 

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