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歴史を読み解くということ―網野史学との対話 [散読記]

日本って何だろうとか、日本人って何だろうと考えるとき、いつも思い浮かべるのは歴史学者の網野善彦氏のことだ。
網野氏は、歴史の表面には出てこない海民・山民などの非農業民や、海賊・悪党といった反政府的存在の意味を古文書から掘り起こし、中世の歴史学に斬新な視点を持ち込んだ人で、2004年に肺がんで亡くなるまでにたくさんの刺激的な著書をのこした。

わたしが初めて読んだ網野本は『異形の王権』である。聖なる力を結集して王権を強化しようとした後醍醐天皇を中心に、南北朝動乱という歴史の大きな転換点を解明しようとする労作で、異形の輩の派手ないでたちや飛礫(つぶて)打ち、密教儀式に傾倒する後醍醐天皇など、それまで見たこともない生々しい歴史の解読に興奮したものだった。

ところが、農業中心主義的な通念に縛られた歴史学界には、彼を敵視する人が多いらしい。
宗教学者・中沢新一氏と民俗学者・赤坂憲雄氏の対談『網野善彦を継ぐ。』と、中沢氏によるエッセイ『僕の叔父さん網野善彦』には、学界で異端視されながらも、強い信念を持って新しい歴史学を展開してきた網野さんの足跡が語られている。

(中沢)実証主義的歴史学は、文字の表面を読んでいくんですね。ところが網野さんは、おそらくこういうことを考えていたんだと思います。つまり、「歴史はつねに自分が語りたかったことを語り損なう」と。……古文書を前にしても、「ここには何か語り損なわれている欲望が隠されている」、そして欲望を掴み出す解釈を実践した。ところが、フロイト・マルクス以前に属する実証主義的な歴史学は、「そんなことはどこにも書いていない」と批判するんですね。
 書いてないはずですよ。欲望はつねに言語表現の表面からは否定されるものとしてしかあらわれてこないのですからね。ここが、網野善彦の学問の新しさだと思います。(『網野善彦を継ぐ。』36ページ)

無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和』以降は、権力の及ばない避難地である寺社や山林などの「アジール」の問題が網野氏の重要なテーマとなっていく。

 アジールは存在できない――それが現代人の「常識」である。その常識はメディアや教育や家庭をとおして、子供の頃から私たちの心に深くすり込まれている。今日の歴史学者とて、その例外ではない。アジールの実在感を感じ取ることのできないままに、アジール的なるものへの感性を抑圧する教育システムをくぐり抜けて研究者となった彼らは、近代以前の社会に生き生きと実在していたアジールの息吹を感じ取れなくなってしまっている。そういう抑圧された意識によって解読され、解釈された「歴史」なるものが、今日のアカデミズムを支配する歴史学を再生産する様式となっている。……
 歴史学とは、過去を研究することで、現代人である自分を拘束している見えない権力の働きから自由になるための確実な道を開いていくことであると、網野さんは信じていた。
……だから、アジールの研究は、網野さんの中でも特別な意味をもっていたのである。(『僕の叔父さん 網野善彦』69-70ページ)

 ところが国家を立ち上げる権力意志は、自分に突きつけられている否定性をあらわす、このアジールを憎んでいる。……近代に生まれた権力は、法にも縛られず、警察力の介入も許さず、租税を取り立てることも許さないこのような空間が、自分の内部に生き続けているのを許容することができなかった。そのためにアジールとしての本質をもつ場所や空間や社会組織は、つぎつぎに破壊され、消滅させられていった。
 しかし、そのことを「進歩」と言うのはまったくの間違いだろう。アジールを消滅させることで、人間は自分の本質である根源的自由を抑圧してしまっているのである。根源的自由への通路を社会が失うということで、「文化」は自分の根拠を失い、自分を複製し増殖していく権力機構ばかりが発達するようになる。ひとことで言えば、世界はニヒリズムに覆われるのだ。(『僕の叔父さん 網野善彦』96ページ)


話はそれるけれど、「そんなことはどこにも書いていない」と歴史学界から総攻撃されるあたり、三谷幸喜氏が『新選組!』放送中に「歴史ファン」から受けた批判を思い出す。
正統とされる文献史料の文字面だけを追う歴史学では、歴史はただの年表に過ぎなくなってしまう。網野氏は襖の下張り文書のような本来は捨てられていた古文書や、絵巻物に描かれた異形の人々を読み解くことで、権力の手からこぼれ落ちる民衆のエネルギーをよみがえらせてくれたのだ。歴史を人間の手にとりもどすために。

過去を知ることは未来を創ることだという網野氏の信念は、どの著書にも通奏底音として流れているが、専門書は苦手という人でも非常に読みやすく、網野史学の魅力が凝縮されている本としてはこの1冊がおすすめだ。

日本の歴史をよみなおす (全)

日本の歴史をよみなおす (全)

  • 作者: 網野 善彦
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2005/07/06
  • メディア: 文庫


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コメント 7

降龍十八章

こんにちは。
網野先生ですか。なんとなく見たような気もします。ぜひ、本屋で読んでみたいと思います。
歴史学者には時代遅れの皇国史観のバカ学者が多いのではないでしょうか。
by 降龍十八章 (2005-08-16 13:05) 

チヨロギ

降龍さん、こんばんは。コメントとnice!をありがとうございます。
ぜひぜひ読んでみてください。わたしなど、目からうろこが何枚落ちたことか。
(うろこがまた再生するところが情けないですが・・・。)
時代遅れというよりは、皇国史観も含めて戦前の歴史研究を全否定することで、せっかく生まれかけた良い芽まで根こそぎ取り除いてしまった戦後の歴史学の怠慢さを網野さんは問題にしていました。
それにしても日本のアカデミズムというのは、かなり風通しが悪いところのようですね。縁がなくてよかったー(^_^;)
by チヨロギ (2005-08-16 18:30) 

チヨロギ

茅ヶ崎住人Rさん、nice!をありがとうございます。
by チヨロギ (2005-08-18 22:19) 

チヨロギ

Aaさん、nice!をどうもありがとうございます。
by チヨロギ (2005-08-20 00:13) 

Aa

こんばんは。不勉強ながら網野史学についてはまったく知らなかったのですが、
>「歴史はつねに自分が語りたかったことを語り損なう」
という部分には大変な共感を覚えました。
公文書に書くことなんて所詮建前ですからねえ。人に聞かせる話も同じ。絶対に飾っている部分があるはずなのです。それを四角四面にそのまま受け取るだなんて、コミュニケーション(対話・対面)能力という点で見れば、圧倒的な間違いだと思います。・・・私は網野さんとは、過去の歴史の人物ともコミュニケーションを取ろうとした(本気で対話しようとした)人であるような気がしてなりません。
というのも、他に知っているこういう考え方の人(例えば三谷幸喜さんや杉浦日向子さん)にしても、やっぱり皆、人間同士の交流、コミュニケーションというものを大切になさっている方だからです。そして皆、人間という存在について理解していないどころか、非常に深い洞察を持っておられる方々でもあります。
すみません、寝不足で疲れていたのでniceだけ先に送らせていただきました。
紹介して下さった御本、是非読んでみようと思います。

・・・アカデミズムも所詮は人が築いているものですからね。やっぱり「語りたかったことを語り損なう」のは避けられないものなのだと思います。でも私は、語りたいことを語る人間でありたいと思います。
by Aa (2005-08-20 02:10) 

チヨロギ

Aaさん、寝不足のところをご訪問いただき、ありがとうございます。
拙い記事で伝えたかったこと、むしろそれ以上の意味を読みとってくださり、心から感謝しております。
ご指摘のとおり、網野さんは「対話」の努力を惜しまない方でした。学界からの批判に対しては著書を通して丁寧に反論し、在野の歴史研究者や他ジャンルの学者とも広く交流し、また史料を徹底的に読み直すことで聞こえてくる普通の人々の声に耳を傾けていたと思います。

若手研究者との対談のなかにこんな言葉があります。完全な真実は無限に遠いところにしか存在しないけれども、真実があることを前提にして、それを少しずつ明らかにしていく過程こそが学問であり、永遠に真実を求めつづけるのが人間という存在である。むしろ真実などわからないと決め込む態度こそ傲慢のきわみだと。
わたしはファンとして思い込み過剰なのかもしれませんが(^_^;)、このようなところに網野さんの謙虚さと誠実さ、そして人間への絶対的な信頼と愛情を感じてしまうのです。三谷さんに惹かれるのもそういうところですし、おっしゃるように杉浦さんの江戸研究にも普通の人々への温かいまなざしを感じますね。

網野さんの本、ぜひご一読ください。きっと気に入っていただけると、勝手に信じております。
by チヨロギ (2005-08-21 00:52) 

チヨロギ

◇柴犬陸さん、たくさんのnice!をありがとうございました(^.^)
by チヨロギ (2007-01-12 02:25) 

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