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吉屋信子が恋したたったひとりの男。 [気になる下落合]

 吉屋信子Click!は下落合時代、生涯でたった一度の異性愛を経験している。相手は、近くに住む若くて気弱そうな画家だった。もちろん、むさくるしくてズボラで、しょっちゅう犬に吠えられている佐伯祐三Click!ではない。第一文化村の北側、府営住宅Click!エリアの松下春雄Click!とまったく同じ住所、下落合1385番地に暮らしていた洋画家・中出三也だったと考えられている。中出は、信子がYWCA時代からの友人である洋画家・甲斐仁代と同棲していたことから、信子はひとつ年上の彼とも知り合ったのだろう。
 ふたりの様子を、林芙美子『落合町山川記』(1933年・昭和8)から引用してみよう。ただし、バッケが原Click!の向うに住んでいる様子は、すでに下落合から1928年(昭和3)に野方町上高田へと引っ越したあとの様子で、林はふたりのことを、結婚している夫婦だと思って書いている。
  
 この草原のつきたところに大きな豚小屋があって、その豚小屋の近くに、甲斐仁代さんと云う二科の絵描きさんが住んでいた。御主人を中出三也さんと云って、この人は帝展派だ。お二人とも酒が好きで、画壇には二人とも古い人たちである。私はこの甲斐さんの半晴半曇(はんせいはんどん)な絵が好きで、ばつけの堰を越しては豚小屋の奥の可愛いアトリエへ遊びに行った。
  
 甲斐仁代は信子よりも6歳年下で、生活費に困るとアビラ村Click!の信子のもとを訪れては、作品を買い上げてもらっていた。彼女の来訪はリャクClick!とは異なり、信子に歓迎されただろう。仁代の作品自体を信子がお気に入りだったせいか、現在の鎌倉市長谷にある吉屋信子記念館でも、彼女の絵を観ることができる。竹久夢二Click!の作品とは、だいぶ扱われ方が違うようだ。信子は、仁代のことを「色彩の魔術師」と呼んで、オレンジを多用した作品を特に好んだらしい。

 仁代は、『ロシヤの婦人像』(1923年・大正12)で二科に入賞し、二科女性画家の受賞第1号として世に広く知られていた。中出との同棲生活はよほど貧乏だったのか、仁代はしじゅう柔道着を着ており、近所に用事があるときもそのままの姿で外出したようだ。彼女の異様な風体に、当時の人々はあっけにとられただろう。そんな仁代を支援することで、信子はひそかに、好きな中出三也も応援しているつもりになっていたのかもしれない。
 当時の様子を、下落合で信子と同棲していた門馬千代(従来の記述はC女史)は回想している。
  
 信子さんは一時期、年若い、とてもきれいなえかきさんを好きになっていたことがありました。お父さんやお兄さんとは、まったく逆のタイプの人で、男の人にしては珍しいくらいおとなしげで、やさしい感じの人でしたねえ。信子さんの作品に出てくる男の人は、美男でどこか気弱で、世間ずれのしていない、大人の男というよりも少年っぽさの残っている、そんなタイプの人が多いのですが、あるいは、そのえかきさんがモデルになっていたのかもしれませんね。
 信子さんは、その人が好きだということを、わたしに気どられまいと、ずいぶん、気を遣っていたようでしたが、でも一本気で嘘のつけない人でしたから、態度やことばのはしばしに出てしまっていましたね、その人に抱いている感情がどんなもんかってことが。ですから、もの思いに沈みはじめると、こちらも気を利かして散歩に出るようにしていました。
 でも結局は、うまくいかなかったようです。           (吉武輝子『女人 吉屋信子』より)
  
 でも、この恋は長くはつづかなかった。いくら少年のような面立ちをした“やさ男”とはいえ、しょせんは男であって“女の絆”とは無縁の存在だったのだ。また、のちに中出三也には大きな子供のいることが発覚し、甲斐仁代との同棲生活も解消されることになる。
 
 下落合2108番地にあった、吉屋邸のめずらしい写真を入手した。1928年(昭和3)に発行された『主婦之友』2月号に掲載されている、“お宅訪問”シリーズのひとつだ。吉屋邸は、「婦人之友」社を主催した羽仁吉一・もと子夫妻から借金をしてようやく建てた、ポーチ付きのしゃれた西洋館だった。そのお気に入りのポーチで、編み物をしている信子の姿がとらえられている。ヨーロッパ旅行の直前の写真には、信子の文章が添えられている。
  
 よく顔の見えない写真を出すのは、事いささか卑怯未練に似たれども、敢て敵に背を向けたのではなく御覧の通り正面に向いて堂々といともしほらし気に編物をする風情――これがいゝいゝつて皆が申すものですから、何事も自我のない人の言ひなりに従がふ私が此の写真を他選させられた訳です。このしごく天下泰平で陽を浴びて編棒をとつてゐる私の家のポーチにも暫別れを告げて欧州への旅にもう十余日たつと出る身ですゆゑ、この時家のポーチで編物なぞしてゐる姿の写真を見ると、一年余の後無事に旅を終つて又こんな風に呑気に柄になもく(ママ)ポーチで日向ぼつこして毛糸をいぢくる真似が出来ますやうにと神様に祈つてゐます。
 では一寸みなさま行つてまゐります。御きげんやう。
  
 
 ちょうどこの年、甲斐仁代と中出三也のふたりは、下落合1385番地から上高田422番地へと転居している。信子の様子に門馬千代が気づいたように、仁代もそれとなく、同棲相手を見る信子の眼差しに気づいたのかもしれない。門馬千代を連れたあわただしい渡欧には、信子のどのような想いが秘められていたのだろうか?

■写真上:下落合の自宅ポーチで編み物をする、『主婦之友』掲載のめずらしい吉屋信子。
■写真中上:下落合の吉屋邸、ポーチの様子がよくわかるショット。キャプションは、「所は目白文化村の、見晴しのよい高台、御自分で御設計になつたといふ小ぢんまりとしたハイカラな、吉屋さんの小説の中にでも出て来さうなお家」となっているが、吉屋邸は目白文化村ではなくアビラ村だ。
■写真中下は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる下落合1385番地あたり。このどこかに甲斐仁代と中出三也、そして大正期には松下春雄のアトリエがあった。は、現在の吉屋邸界隈。
■写真下は、鎌倉の長谷に残る旧・吉屋信子邸。は、裏庭の藤棚に面した信子の書斎で、巨大なデスクが目を惹く。邸の外観は和風だが、室内デザインの多くは洋風に造られている。
中出三也『城のある町にて-昼さがり-』
三重県松阪市ご出身の辻原生様より、所蔵されている中出三也の戦後作品の画像をお送りいただきました。貴重な画像をありがとうございました。中出三也は戦後、洋画界からは「行方不明」とされる資料も多いのですが、三重県が主催する県展の洋画家部門の責任者をつとめるなど、戦後も引きつづき積極的に制作活動を展開していた様子がうかがわれます。『城のある町にて-昼さがり-』は、4号Fサイズほどの板に描かれたタブローで、辻原様は制作現場の道路を偶然通りかかり、中出三也によって作品が描かれるのを実際にご覧になるという、とても貴重な体験をされています。詳細は、コメント欄をご参照ください。
中出三也「城のある町にて-昼さがり-」.jpg


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ChinchikoPapa

いつも、過分な評価をありがとうございます。>takagakiさん
by ChinchikoPapa (2007-06-21 19:38) 

sig

こんばんは。
吉屋信子というお方は、小説を読んだこともないのですが、どこか好感が持てるのです。
上の2枚のおうちの写真ですが、ポーチといい、ガラリの白い窓といい、塀のない庭といい、私が憧れていた住まいのイメージにピッタリなんですよ。(笑)
by sig (2008-12-28 18:08) 

ChinchikoPapa

sigさん、コメントをありがとうございます。
わたしも下見板でバンガロー風の、シンプルな西洋館が好きであこがれるのですが、壁の中に保温材/断熱材の類がなかった当時は、相当寒かったのではないかと思います。寒いのが苦手なわたしは、逃げ出すかもしれません。^^;
by ChinchikoPapa (2008-12-28 19:42) 

ChinchikoPapa

いつも、たくさんのnice!をありがとうございます。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2009-08-01 22:44) 

辻原生

中出三也さんが懐かしくて、数年前に落合道人さまのこのブログにたどり着きました。
先般、虫垂炎で救急搬送され退院したばかりで、久しぶりにブックマークをおさらいしていて、改めて感じ入って拝読しました。
中出三也さんは、1950年かそこいらから、三重県松阪市に住んでおられました。
ボクの母も絵が好きで県展などに出している素人画家でしたが、中出先生には親しくしていただいていました。(ボクも市の絵画教室みたいなところで教わっていました。)
ある日、城跡を望む市役所前の広い道の中央にイーゼルを立て、絵を描いてらっしゃる中出先生に、母に手を引かれて歩いている時に遭遇し、「まぁ先生! なんと素敵な絵なんでしょう。ああ、そこはそういう風に描くんですねぇ…」と母が感嘆の声を挙げたのでしたが、先生は「やぁ辻原さん」と、ニコニコしてらっしゃって、手は止めず筆を運び続けていらっしゃいました。
母とボクはしばらく拝見してましたが、気をそらしてはいけないと、静かにご挨拶してその場を辞したのでしたが、なんと!
その数日後に、わざわざボクの自宅に、あの時、描いてらした絵を届けてくださったのです!
まだやり残していることがありますので終活じゃないのですが、2、3年前に、絵や掛け軸などの整理をしていて、この絵を数十年ぶりに懐かしく眺めて、そしてググって落合様のブログを拝読するに至ったというわけです。
懐かしさのあまり、そして落合様のご見識の深さに感銘し、ついつい冗長な駄文でスペースを汚しました。お許しください。




by 辻原生 (2020-11-28 14:14) 

ChinchikoPapa

辻原生さん、ごていねいなコメントをありがとうございます。
虫垂炎は、こじらせると怖い疾病だと聞きますので、くれぐれもおだいじに過ごされてください。
戦後の中出三也は、画壇から「行方不明」にされたまま、その軌跡はほとんど知られていませんので、たいへん貴重な証言だと思います。ちょうど同じころ、パートナーだった甲斐仁代は練馬の桜台にあったアトリエで、ネコ5匹に囲まれ酒の飲みすぎでアル中になりながらも、タブローの制作をつづけていました。そして、一水会に所属し出身の二科展ではなく、なぜか日展に作品を出展しています。はたして、ふたりの間にはどのような行き違いが生じたものでしょうか。
そういえば、甲斐仁代のご姻戚の方が、少し前から茨城県で「甲斐仁代ギャラリー」をオープンされています。代表の甲斐文男様にもうかがったのですが、残念ながら中出三也と彼女とのいきさつは、ご存じありませんでした。
http://www.kaihitoyo.com/

by ChinchikoPapa (2020-11-28 15:47) 

ChinchikoPapa

こちらにも、「読んだ!」をボタンをありがとうございました。>アヨアン・イゴカーさん
by ChinchikoPapa (2020-11-28 15:48) 

 辻原 生

落合道人さま
2007年にお書きになったことなので、もうお目に留まらないかと思っておりましたのに、早々にコメントをくださって感激しています。ありがとうございました。

両親(家族でスケッチ旅行などすることはあり、そんなときには絵も描いていましたが父は絵よりも詩人や歌人でして短歌誌の主宰や詩誌の同人でした)は知ってたと思うのですが、ボクは甲斐仁代さんのことは貴台のエッセイで初めて知りました。
母の妹がよく読んでいた吉屋信子さんの想う中出三也先生のことも、まことに興味深く拝読しました。
それにしても「画壇から「行方不明」になって」おられたとは!
そして「甲斐仁代ギャラリー」があって中出三也先生の記念館なりギャラリーなりが松阪にないことの淋しさを思います!

「バッケが原北端の甲斐・中出アトリエ。[気になる下落合]」や「ネコ5匹と暮らすアル中の甲斐仁代。 [気になるエトセトラ]」も拝読してのお導きで甲斐仁代さんの作品を、写真ではありますがたくさん鑑賞することができました。
子供の時の思い出とともに、中出先生の画風に相通じるものを感じました。
小学校の講堂を使っての、市が主催する絵画教室がありまして、中出三也さんが先生だったのですが、小学生のころ通っていました。
その日は、「牧場の絵を描いてごらん」という課題で、思い思いのイメージの牧場を描くのですが、ボクは手前と遠くに柵を描いて牧場であること表し、数頭は描くつもりの馬のメインになるやつを少し画面左目のほぼ中央に右向きの姿で描いていたのです。先ず馬の輪郭を描き目鼻や鬣も意識しながら細めの筆でコチョコチョとした細かな筆さばきで描いていたのですが、やがて回って来られた先生は、ボクの道具箱から太めの筆を取り上げると、ボクのパレットで大胆に色を混ぜ、なんと! 馬の輪郭の中に大胆に筆を入れ、ザッザッザという感じで縦に何本もの極太の線を入れる感じで馬のボディーを塗りつぶされたのです!
ボクは驚いて後ろに立つ先生を見上げたのですが、先生はただニッコリ笑って、「これでいいんだよ」とでも言うように2,3度頷いてみせ、無言のままで次の生徒のところに歩いて行かれました。

後に先生の絵を見るようになって(また母の形見となった頂いた絵を見ても)、油彩とはこういう風に描くものなんだ~と、知った次第。

中央で行方不明とされていた先生は、三重県と松阪では著名な文化人であり、多くの交遊もある画家として活躍されていたという子供時代の印象ですが、さきほど改めてググってみますと、こんなものも見つかりました。
「三重県美術協会」と「県展」の始まりに中出先生が参加(昭和23年)
https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/art-museum/54180037256.htm
戦後の21年末三重県松阪市に転居。昭和46年逝去、享年74歳。
http://www.inohag.com/newpage131.html

 
所蔵する中出三也さんの絵の写真を貼りたいのですが、貼れますかどうか・・・
(貼れないようですね、残念。)


by  辻原 生 (2020-12-01 17:08) 

ChinchikoPapa

辻原 生さん、コメントをありがとうございます。
中出三也は戦後、三重で開かれた1948年の県展へも出品していたのですね。ひょっとすると、甲斐仁代が疎開したまま連絡がとれない、あるいは東京へもどらない中出三也について、周囲には「行方不明」と話していたのかもしれないですね。事実、東京の「画壇」へは二度ともどることはありませんでしたので、「行方不明」がそのまま定着してしまったのかもしれません。
吉屋信子といえば、ひょっとすると甲斐仁代の作品とともに、中出三也の作品も持っていたかもしれないのですが、いまだ未確認です。東京にあった市谷砂土原町の自邸は空襲で全焼してしまいましたが、この記事にも登場している鎌倉長谷の自邸は戦災をまぬがれています。たいせつな身のまわりのものは鎌倉へ疎開させているようですので、先年、同邸を訪れた際に絵画作品が保存されていないかどうか、学芸員の方へ確認すればよかったと、いまだに悔やまれます。
馬の絵のエピソード、とても貴重な体験をされましたね。太筆で大胆に、勢いのまま一気にすばやく、あえてプリミティフに仕上げるあたり、戦後につづく表現の軌跡が感じられて、とても興味深いです。
お手もとにある作品の画面写真、よろしければわたし宛て(下記のメルアドです)に送っていただければ、この記事の下に貼らせていただきます。ご検討ください。
tomohiro.kita@gmail.com

中出三也と甲斐仁代につきましては、ずいぶんいろいろな記事を書いた憶えがあります。このブログの検索機能は原始的で、スムーズに検索するのが困難ですが、お時間のあるときにでも検索されてみてください。

by ChinchikoPapa (2020-12-01 22:45) 

辻原 生

種々拝読し、こうしてレスを頂戴するうちに、ますます落合道人様という方の凄さに感じ入り、きっと何か大変な見識と業績をお持ちになった方だろうと興味は尽きませんが、映画を志しながらいまだ、これがボクの作品ですと言える劇場映画の一本もない情けない身としては、ただただ在りし日の郷愁と切ない少年の日の追憶に浸るばかりで、畏れ入りつつも、中出先生のご縁で存じ上げることができて嬉しく思っています。

さて、メアドを頂戴しましたので、このあと早速、添付ファイルにて中出三也先生の作品の写真を送らせていただくこととさせていただきます。
ご関心のある方に観ていただけたら嬉しく存じます。

・F4ほどの板に描かれています
・白い紙の上に置いて間接的な自然光で撮ったものです
・画題を先生より伺っておりませんが、中学に上がって梶井基次郎の『城のある町にて』(松阪が舞台)を読んだことから、ボクは先生には失礼ながら勝手に(!)、『城のある町にて--昼さがり--』と命名しています
・松坂城址を望む日野町通りのど真ん中にイーゼルを立てて描いておられた絵です(車も少ない時代のこと、そんなことができたのです)

なお、中出三也先生は、第一回の県展にも出品しているというより、三重県美術協会の10人ほどの創立メンバーの一人であり、第一回の県展(三重県美術展覧会)の開催に努め主催した洋画家部門の代表的画家だったという感じかと思われます。
by 辻原 生 (2020-12-02 15:47) 

ChinchikoPapa

辻原 生さん、貴重な画像をおおくりくださり、ありがとうございました。
さっそく、本記事末に拙い説明文とともに掲載させていただきました。ご参照ください。重ねてお礼申し上げます。
わたしは、単なる月給とりを生業とする身にすぎませんので、たいした見識も業績もありません。くれぐれも、誤解されませんよう。(汗)
中出三也は、県展の洋画家部門の責任者のような位置にいたとすれば、戦後も積極的に制作活動をつづけていたことになり、「行方不明」どころではないですね。少し調べれば、彼の創作活動が健在なことはわかったはずで、やはり戦後になって甲斐仁代が「行方不明」と証言したがために、それが定着してしまったような気がします。
『白のある町にて-昼さがり-』、素敵なタイトルですね。ぬくもりのあるまぶしい陽射しと、どこか潮の香りが混じるそよ風が、画面からあふれてくるような感じがします。
by ChinchikoPapa (2020-12-02 17:45) 

辻原 生 

中出三也先生の絵の写真を、的確なキャプションを添えてご掲載くださいまして、ありがとうございました!
おっしゃる通りですね!「ぬくもりのあるまぶしい陽射しと、どこか潮の香りが混じるそよ風が、画面からあふれてくるような感じ」と落合道人さん、おっしゃってますが、あの城のある町の昼下がり、母と一緒に絵を描いておられる中出先生に遭遇したあの時間、まさしくそんな感じであった・・・と追憶しています・・・。
海からは結構遠いのに、あの町は、本当に時々、どこか潮の香りが混じるそよ風が吹いているのでした・・・。
(なお、小生はすでに故郷を遠く離れて、かつて日本のハリウッドと言われた街に住んでおります。映画も創れずに・・・。(汗))
by 辻原 生  (2020-12-03 12:43) 

ChinchikoPapa

辻原 生さん、コメントをありがとうございます。
落合地域も、いちばん近い海(東京湾)から10kmほど離れているのですが、ときおり南風が吹く日など肌にまとわりつくような、生臭いような潮の匂いが漂うことがあります。海辺で育ちましたので、潮の匂いには敏感なほうだと思うのですが、けっこう内陸にまで深く入りこんできますよね。
記事末の文章の一部を、少し変えてみました。松阪市に「お住まい」のようなニュアンスを変え、「ご出身」とさせていただきました。ほかにも、気になる点がございましたらご指摘ください。ありがとうございました。
by ChinchikoPapa (2020-12-03 13:57) 

辻原 生

落合道人さま
わざわざ写真のキャプションを書き変えてくださり、ありがとうございます。
改めてアップしてくださった写真を見せていただいて、「映え(バエ!)てる~!」と、今風に感慨一入。
落合記録文学のファンと美術愛好家にも見ていただけると、中出三也先生も喜ばれるのではないかと思います。

家にもふらっと何度か来てくださっていた中出先生ですが、ボクに明確な記憶があるのは最初に書きましたように1950年頃からのことなのですが、先に引いた資料によると「戦後の21年末三重県松阪市に転居。昭和46年逝去」とありますので、戦後間もない1946年から松阪に住んでおられ、ボクは1960年に進学のために上京して以来、住居としては松阪を離れていて、中出先生にお会いしていなかったのですが、その後11年間を松阪で過ごされていたのですね・・・。
父母はともかく子どもだったボクとしては、ほんの少しだけの中出三也さんとの邂逅ですが、落合様のお蔭で感慨深いものとなりました。

中出三也(ここで敬称略!)と別れてより、二科を捨てて(?)日展に奔った甲斐仁代と、戦前から帝展画家であった中出三也の終戦・敗戦による思想と精神の揺らぎ・呵責・悔恨・・・のようなものがあったのか、どうか・・・。

松阪での中出三也の交友は、先に挙げた中日新聞と三重県美術協会の立ち上げと県展の創設に係る記事(https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/art-museum/54180037256.htm)に出てくる人の名を見ていますと、例えば財界人として出てくる後藤脩さんなどは、保守の人でありながらリベラルな人との交流や支援もする人で後に松阪市長をやった人ですが、ボクの父母+中出先生+後藤脩さん、という(なんだか訳わかりませんよね!)シーンがあったように記憶します。(どこでどういうことがあったのか、何回あったのか、曖昧な記憶ですが、画家・芸術家・文化人として松阪に定着していた中出三也さんのイメージとして、書かせていただいておきます。)




by 辻原 生 (2020-12-04 14:13) 

ChinchikoPapa

辻原 生さん、コメントをありがとうございます。
中出三也は東京生まれですので、戦時中の疎開がらみの転居とはいえ、なぜ生まれ故郷にもどらなかったのか、ちょっと引っかかりを感じます。URLをいただきました「戦後三重の美術 県展黎明の歌」の記述にも、中出三也は「疎開作家」として位置づけられていますね。
そのあたり、東京の洋画界と訣別したいなにかが起きたのか、あるいは疎開地が非常に気に入ってしまい永住を決意しなのか、はたまた甲斐仁代とのいきさつに絡む思い出のせいか、それらが複合して転居への決意となったものか……、その要因をめぐりいろいろな想像が働きます。
甲斐仁代にしても、官展から二科へ移籍した画家は多いですが、その逆というのはめずらしいケースです。二科の会員同士で、よほど嫌な派閥争いでもあったのか、二科の運営陣とうまくいかなかったものか、それとも戦後に属していた一水会という画会の性格上、日展に出品するのが普通かつ自然な流れで、別に彼女の考え方に大きな変化があったわけではないのか、こちらも少なからず「謎」です。
現在でも、都道府県が主催する美術展(県展)はあるそうですが、それぞれが独自の(強固な?)組織となり、主要な美術展や画会、相互同士の交流などはほとんどないと、美術家の方にうかがいました。
by ChinchikoPapa (2020-12-04 15:45) 

辻原 生

落合様のおかげで、暫し高尚なひとときを楽しませていただきました。
どなたかの言葉を引用して、長きに渉って書いてこられた、この下落合周辺をキーワードにした珠玉のエッセイと言いますか記録文学に向けた落合様の文章作法は、それも書いておられたように、ボクのジャンルにも通じることとして、たいへん勉強になりました。
ひとつの話題で、あまりに長くコメント欄のスペースを占有することの申し訳なさに恐縮していますが、ダイジョウブだったでしょうか。いつもご丁寧にレスしてくださるので、ついつい甘えて書き散らしてしまいました。お許しください。
コロナに負けず、ますますのご健筆を! とお祈りしています。
ボクは、そろそろ後がありませんので、コロナ終息(早くても再来年の5,6月でしょう)まで息を潜めて蟄居閉門しますが、明けたらすぐにも気のイク一本を撮れるよう、マジで考えなきゃ! と思っております。(10年前に一度クランクイン直前まで行って、ある事件で終わってしまったタイを舞台にしたシナリオ(陳腐化している)の手直しから始まるアクションになるかと思います。)

by 辻原 生 (2020-12-04 17:42) 

ChinchikoPapa

辻原 生さん、ご丁寧にコメントをありがとうございます。
 >ひとつの話題で、あまりに長くコメント欄のスペースを
 >占有することの申し訳なさに恐縮しています
いいえ、お気づかいは無用です。このサイトには、ひとつのテーマでコメント数430という記録的な記事もありましてww、拙サイトの記事に関するテーマや登場人物についての、さまざまな情報をいただく重要な窓口になっています。
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2004-11-26-1

お気にとめられた記事がどこかにありましたら、ご遠慮なさらず、ぜひまたコメントをお寄せください。
コロナ禍が終息し、1日でも早く映画作品へり取り組みが再開できますよう、なんのお力にもなれませんが、下落合より応援のエールを送らせていただきます。
by ChinchikoPapa (2020-12-04 19:13) 

辻原 生

ありがとうございます!
読み返させていただいて、やはり甲斐仁代と中出三也、そして吉屋信子の心の通い合いが、どんなもの、どんなことであったかと、非常に面白いテーマとして気になります。
ボク個人の提供できる材料としては、すでに申し上げたことがすべてですが、落合道人さんのペンで、このテーマでのさらなる一文を期待したくなりました。
いつの日か、書いてください!
by 辻原 生 (2020-12-04 20:45) 

ChinchikoPapa

辻原 生さん、コメントをありがとうございます。
了解いたしました。なにか新しい事実や出来事がわかりましたら、こちらでレポートにしてご報告したいと思います。ありがとうございました。
by ChinchikoPapa (2020-12-04 22:20) 

辻原生

コメント数430の「入江たか子は廃墟のニコライ堂で」を読了!
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2004-11-26-1
何人かご一緒したことのある方の名があって、また懐かしさでいっぱいになりました。
原田芳雄さんと最後に会ったのは、宮川一夫さんを見送った葬儀の日だったと、彼が亡くなったと報道で知ったときに思ったことを、また思っています・・・。
おりしも、友人知人が亡くなったのでと、賀状欠礼の葉書が2枚3枚と舞い込む季節です。

それにしても、ますます落合道人さまの謎が深まっていきます。
100年以上生きてらして、なお青年のような情熱と探求心をお持ちになってる、物語性豊かな新ジャンルとも言えるリージョナル文学を打ち建てた怪人!
by 辻原生 (2020-12-05 15:44) 

ChinchikoPapa

辻原生さん、コメントをありがとうございます。
「入江たか子は廃墟のニコライ堂で」>「下落合が気になったわけ」ですね。^^ もう、46年も前に観たドラマでした。友人知人ばかりでなく、昔から好きだった俳優の訃報がとどくと、やはりガッカリしますね。
地元の古老に取材しているとき、東京大空襲や山手大空襲のテーマになっていろいろお尋ねしていたのですが、その際「空襲のときは、どちらにおられました?」と訊かれて、つい絶句してしまった憶えがあります。w
東京オリンピックでさえうろ憶えの生まれでして、大空襲の話は親世代からの受け売りにすぎないのですが、当時の様子を突っこんで話していますと、つい錯覚をされてしまうのかもしれないですね。
by ChinchikoPapa (2020-12-05 17:11) 

辻原 生

お言葉に甘えて、つい長居してしまいます。
「空襲のときは、どちらにおられました?」はウケました。(笑)
ま、ボクは東京じゃないけれど、隣町が焼夷弾攻撃されるのを家から離れた田んぼに敷いた布団の中から見たことを、鮮明に覚えていますけれど。
(ついでに思い出したことは、東京大空襲を描いた早乙女 勝元 (著) 田島 征三 (画)の「猫は生きている」を人形アニメの映画にした際のプロット=シナリオの基になる構成原稿を、書いたこと。)
東京オリンピックは、今調べてみましたら、ボクは東京にいた時期なのですが、トンと記憶がありません。
非体育会系だった所為でしょうか。
それとも、あの大阪万博も「反博」してて、いろいろ参考になる展示もあっただろうに「我慢して」一度も見に行ったことがなかったボクですので、あるいは一所懸命に(!)存在そのものを「消そう」としてたことが海馬の記憶フォルダに痕跡を残していないということなのでしょうか・・・?
落合道人さんのスゴイ軌跡と、今後の展開に、目が離せません。
by 辻原 生 (2020-12-06 14:06) 

ChinchikoPapa

辻原 生さん、コメントをありがとうございます。
 >東京大空襲を描いた早乙女 勝元 (著) 田島 征三 (画)の「猫は
 >生きている」を人形アニメの映画にした際のプロット=シナリオ
 >の基になる構成原稿
早乙女勝元の著作はかなり読んでいると思うのですが、この映画は観たことがありません。辻原さんのプロットとあらば、ぜひ拝見したいですね。
1964年の東京五輪は幼い小学生でしたが、親父に連れられて歩く東京の街が急速に変貌し、関東大震災の防災インフラも地元のコミュニティも次々と破壊される、小林信彦にならえば「東京の町殺し」が行われている真っ最中でした。古くからつづく町名が、オリンピックの前後に得体のしれない町名に変えられたのも、親父の「文句」とともに憶えています。
EXPO'70は、修学旅行で連れられていきましたが、あの博覧会で描かれていたバラ色の未来図は、ことごとく裏切られつづけているような気がします。
by ChinchikoPapa (2020-12-06 15:36) 

辻原 生

国も都も、経済の意味も財政の意味も分かってないノータリンが、あるいは個人的守銭奴の大ウソつきが仕切っていますから、まぁ師匠の一人である市川崑さんが公式記録映画を撮ったあの年の東京オリンピックの時ほどには景観的には東京破壊がないにしろ、公金をジャブジャブ使ってその10パーに群がる悪党どもの祭典という意味では、あの東京オリンピックの比ではない!!! と貴台のご尊父は声を倍加して怒ってらっしゃることでしょうね。
貴台の原稿の端々には、ご尊父の思いが反映されていたのだと、思い返し、読み返しして、思っています。

映画「猫は生きている」は児童向けの絵本を原作としていて、人形劇の人形を動かして(背景は劇映画風の美術でリアル感を出して)の実写という作りになっていて、ボクがシナリオを書き、同輩のSに監督をさせるつもりで準備が始まったのですが、製作の進行の過程で東京サイド(企画し撮影したのは大映京都撮影所)のチャチャが入り、原作者の意向もあったとか言われて、ボクのプロットと違ったシナリオが東京の別の者の手によって書かれたので、ちょっと不満の残る仕事でした。
「むかしむか~しのおはなし」なのですが、ラストシーンとしては、お母さんの読み聞かせを聞きつつ眠りにつく現代の幼な子の真上に、「再び! B29の轟音が聴こえはじめ、やがて耳をつんざくB52の重爆撃ジェットに変わっていきエンドマークとなる」という「戦前を思わせる」テーマが吹っ飛んでしまったのでした。

by 辻原 生 (2020-12-07 12:29) 

ChinchikoPapa

辻原 生さん、コメントをありがとうございます。
東京2020でカネをジャブジャブつかうよりも、1964年の東京五輪でその多くが破壊された、関東大震災の教訓で造られていた防災インフラを、各地域の人口に見あうよう避難施設として復活させることが先だと考えるわたしは、オリンピックを招致して5,000万円を懐に入れた知事にいわせれば、どうやら「東京都民」ではないようなのですね。w
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2014-01-26

1960-70年代前半は、日本の基地からヴェトナムの「北爆」に向け、B52が飛び立っていた時期と重なりますので、「むかしむか~しのおはなし」ではなく現在進行形の出来事だったはずですね。
そういえば近々、米軍の相模補給廠から修理を終えた戦車が、国道16号を経て横浜港のノースピアに運ばれるのを阻止した記録映画が、東中野で公開されると聞きました。ナレーションは泉谷しげるだそうで、ちょっと惹かれますが、上映が平日のようですので観にいけそうもないですね。
確か最後は、国道16号にある橋の橋脚強度を理由に、「合法的」に戦車輸送をストップさせたのは、当時の横浜市長だった飛鳥田一雄だったかと思います。
by ChinchikoPapa (2020-12-07 12:55) 

辻原 生

「5,000万円を懐に入れた知事」とお書きになったことのネタに不案内なのですが、思い出すのは叔父のことです。
もう亡くなった叔父は建築家でして、リゾート開発やホテルのチェーン展開や公共工事の設計監理をよくしてまして、一時ボクも設計事務所の一員として席を置いていたことがあるのですが、彼がよく言っていたことは、「設計費は10%なのに工作費は20%」と、助手や社員を何人も使って徹夜仕事をしているとき嘆いていたことです。

工作費というのは周辺対策費と政治家への賄賂です。とりわけ公共工事の場合は後者の取り分が多いのですが。
で、TOKYO2020では情報宣伝等の関連費を含めると20~30兆円ほどが掛かってるわけで、ゼネコンばかりでなくDENTSUをトップとするメディア・情報・イヴェント関連を含めて、5,6兆円が賄賂として「知事とその他」の手に渡るという(のが叔父の)話です。

別荘への行き来に公用車と都職員の運転手を使っていたあのケチな舛添が、ついには「知事報酬はいりませんから! どうか、このまま知事を続けさせてください!」と叫んでいたのも、オリンピックスタジアムや関連道路工事の発注者としてサインすれば、年間2000万かそこいらの知事歳費(報酬+α)なんかまったくアテにしなくてよい何千億円(それをオリンピック招致の言いだしっぺ石原と前任の猪瀬にも分ける)の工作費が入るわけだからです。
障害を持った息子のためにお金を残してやりたいと必死になってる森とか、国際法廷で裁かれるかもしれない皇室ゆかりの○○とか、そのほかモロモロがこの利権に群がっているワケで、とても現知事も5000万なんてちっぽけなお金で知事報酬を半額(舛添は返上と言ったが小池は半額にすると言った)にはしないと思うのですが・・・。

東中野と言うとポレポレですかね。行ったことはないのですが、マイナーな佳作を上映するところと聞いています。戦車阻止も珍しく一定の勝利をしたものとして懐かしいですが、その映画は最近になって作られたものなのでしょうか? リバイバル上映?
飛鳥田さん・・・またまた懐かしい名前が出てきました。確か社会党党首だった時期がありましたよね。

って、こんなことまで書くのは如何なもんかと反省しつつ・・・。
by 辻原 生 (2020-12-11 15:22) 

ChinchikoPapa

辻原 生さん、コメントをありがとうございます。
5,000万円をバッグに詰めようと、記者のたちの前で実演までして恥をさらしていたのは舛添のあとの、ピンチヒッターのように都知事に就任した元・副知事の猪瀬(短期間だったので印象が薄いw)ですね。オリンピック招致は、「全都民の願い」と発言したのは彼でした。あまりに短い就任期間だったので、彼にとっては5,000万円でも大きな利権だったのではないかと思います。
ポレポレで上映されるくだんの映画『戦車闘争』は、当時の映像を再編集して制作し、新たに泉谷しげるへナレーションを依頼した、現代の作品ではないかと思います。
飛鳥田一雄は、大佛次郎つながりで下落合の船山馨と親しく、横浜市長時代から社会党の委員長時代を通じて、ときどき下落合を訪問しているようです。大佛次郎は「パリコミューンの下で鞍馬天狗を死なせる」というストーリー展開を飛鳥田と常々話していたそうですが、同様のプロットを活かした小説『蘆火野』を発表したのが船山で、ふたりは「先に書かれちゃったよ!」と残念がったというエピソードが残っています。
https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2013-01-04

by ChinchikoPapa (2020-12-11 16:57) 

辻原 生

いや、なんとも申し訳ありません! お恥ずかしい!
「5000万はそのバッグには入らないでしょう?」と野党に言われて、「いや、入ります!」と言ってギュウギュウ押し込んだけど入らなかったという、あの情けないTV中継された知事のことだったんですね。(笑)
実はせっかく貼ってくださったリンクを拝読してなかったのです。ごめんなさい!

「オリンピックに賛同しない者は都民じゃない」が、今また「都民」を「日本人」に言い代えて、金縛りと恫喝に遭ってるメディアが吹聴しています。もちろん言わせているのは国と都です。
ボクがトンと先のオリンピックの記憶がトンでいるというのも、TOKYO2020に反対してるのも、この「一億一心火の玉だ」に対する拒絶反応です。
おっしゃってるご趣旨に賛成です!

反原発の新聞の全面広告に名を連ねることを拒否った某小説家ってのは、「ノルウェイの森」ですか?
赤と緑の装丁で上下二巻の本が、昔つきあってた女性の部屋にあって、「面白い」と言うので読んでみたのですが、ただただウケ狙いのファッション性ばかりが目立ってナンの思想性もない退屈なショーセツで、もし、彼のことだとしたら、今年こそとか言ってノーベル文学賞のシーズンにオタクたちがスポーツカフェなどに屯ってる不思議な年中行事がオンエアされてますが、いくら虐殺のための火薬を作ったことの反省から拠金され作られたノーベル財団とはいえ、この思想性のなさでは絶対に受賞することはないでしょう。
ヨーロッパで語られ評価される芸術や文化に、思想性の欠如は致命的欠陥で、彼は「対象外」なのです。

飛鳥田一雄と大佛次郎と船山馨と・・・。
なんか下落合には、画家とか小説家とか文化人とか・・・そして落合道人さんのような稀有な知識人を産み出す地磁気でもあるのでしょうか?!
ますます不思議で目の離せないリージョンです。

by 辻原 生 (2020-12-12 15:22) 

ChinchikoPapa

辻原 生さん、コメントをありがとうございます。
東京2020が納得できない理由として、もうひとつ、パンデミックの真っ最中に世界中から人を呼ぶってどういうことだ?……という深刻な課題も、今年から加わってますね。オリンピックは選手だけが来日するだけでなく、すべての関係者を含めるといまや10万単位になりますので、1964年当時の五輪どころではない規模になっています。
そんな高いリスクを犯して、タイプの異なるといわれる感染力が強いウィルスが日本に蔓延したら「しかたがなかった」じゃ済まされない、いったい誰が責任をとるのか?……という、切実な危機が目前に迫っていると思うんですけどね。
「ノルウェイの森」の小説家は、「拒否」というよりは反応がまったくなく、完全無視(シカト)だったような印象が残ります。わたしも、彼のどこかアメリカナイズされた作品群は好きになれず、だったら本場の米国小説を読んだほうがいいや……というような気分になりました。
もっとも、すべての作品に目を通しているわけではないので、ピント外れの印象かもしれず、なんともいえませんけれど。ただ、「国民が知らない間に」という言い草は、文学者のくせに「個」の存在をいったいなんだと思っているのかと、かなり腹が立ちました。
下落合は、作家たちも多く住みましたが、それに輪をかけて多かったのが洋画と日本画を問わず画家たち芸術家です。わたしは、単に彼らが暮らした物語を拙い表現で掘り起こしてるにすぎませんので、まったく次元が異なります。
どんな政治状況や社会体制の下にあっても、「自由」に思いどおりに表現することをめざしたであろう彼らの生き方(そうじゃない人々もたくさんいます)が、ちょっとうらやましくて惹かれているにすぎません。「知識人」などというおこがましいものでなく、いろいろ散策しながら好奇心を満足させている「道人」です。w
by ChinchikoPapa (2020-12-12 16:47) 

辻原 生

>東京2020が納得できない理由
>いったい誰が責任をとるのか?……
同感です! 
でも、何十万という選手団や関連観光客は来ませんから、その点はご心配なく。勿論、兆円単位の経済効果もサッパリありません。
だって、TOKYO2020は開催されませんもの。
これは、あの大嘘吐きが「アンダーコントロール」と言った時から発生してる世界の課題でしたが、COVID19が決定的にしました。
多くの国から選手団を派遣しないという事態が、そろそろ伝えられ始めると思います。
日本のコロナ対策の虐殺性・人命無視をまずEUをはじめとする多くの国がモンダイとしており、「参加するのは日本とアメリカだけではないか」といった論調もあるようですが、今回を含め2032年までのオリンピック独占放映権を持っているNBC(親会社コムキャスト)がどう出るか? 
中止の場合の保険でカバーされる(なので保険会社は中止になってほしくない)のですが延期の保険カバーはなく、これ以上の延期は絶対にしない。
NBCと米国政権(オリンピック委員会)がTOKYOサイドに「+1」の延期を認めた際に求めたとされる条件は「さらなる延期は認めない」「無観客は認めない」「スポンサーが下りるなどのケースを含めた損害補償」だったと推定され、どっちに転んでも、オツムがアレなこの2代にわたる日本の政権とJOCと東京都は、取り返しのつかない大失態を演じ金銭的にも大損害を被ることになる。
そしてそれらはすべて日本国民に付け回されるワケですね。やれやれ・・・。

これはすべて、全国民の素早いPCR検査→陽性者の完全隔離→治療という防疫学や公衆衛生学上のマニュアル(国際スタンダード)に従い、死亡者を最小に留めながら社会的耐性が付くこと(人口の70%に免疫が付くこと)だけが「感染症の終息」であるという科学的常識を知らず(あるいは良識ある学者の警告を無視し)、目先のオトモダチ財界の利益しか考えなかった咎めです。
オツムがあれな政治家と財界人の国は、目先の利益しか頭になく、タイや中国や韓国や台湾のように科学的スタンダードに従えば、とっくに国内感染者ゼロ(外国から越境してくる外国人&同国人には感染者あり=即刻隔離入院)となって、延期オリンピックも開けて、その経済効果はスゴイことになっていたのに、なんともいやはや・・・。残念でした~。

もう一度言います。おそらくは突貫小僧トランプが大統領でなくなったアメリカも選手団を送らないことになり、NBCはなんらかの契約違反を盾に文句を言い募り、日本の前記団体とスポンサーだけが大損害を被り(それは国民と消費者にツケが来る)、”TOKYO2020+1”は中止となるでしょう。
by 辻原 生 (2020-12-13 14:30) 

ChinchikoPapa

辻原 生さん、コメントをありがとうございます。
 >だって、TOKYO2020は開催されませんもの。
 >
 >多くの国から選手団を派遣しないという事態が、そろそろ伝えられ
 >始めると思います。
ほんとうに、そうであって欲しいですね。
いまだに、日本は他の国々に比べて感染者や死者が「少ない」といっている人物がいますが、どこをどう比較したらそんな比較ができるのか、まったく理解できません。感染検査数の分母が、特に欧米に比べて3桁も異なるにもかかわらず、なにをもって「少ない」というのか、統計学的にいっても科学的に見ても意味不明ですね。
どれだけの感染者が見過ごされ、どだけの人が異なる病名で「死亡診断書」が書かれて見過ごされているのか、そら恐ろしい状況だと思います。
by ChinchikoPapa (2020-12-13 15:51) 

辻原 生

同感です!
小中高が同窓だった奴がいましてね。
親の代からの病院経営を継いだ奴で、県の医師会会長とかもやってて、数年前には全国長者番付にも出た奴ですが、3月の末に聞いた言葉として、「感染者も死亡者も100倍と思っておけ」ってのがあります。
「PCR検査をさせないという方針のもと保健所をしばっているので死亡診断書も心不全とかタダの肺炎とか、それから全身性血管症ってのが最近言われだしたが、まぁそんなことを死亡診断書には書くわけよ」って。
落合道人さんと同じことを言ってます。

先に書かせていただいたことに間違いがありましたので、訂正させてください。
「中止の場合の保険でカバーされる(なので保険会社は中止になってほしくない)のですが延期の保険カバーはなく、これ以上の延期は絶対にしない。」
       ↓
「中止の場合は保険でカバーされる(なので保険会社は延期になってほしくない)のですが延期の保険カバーはなく、これ以上の延期は絶対にしない。」
ーーーです。
つまり2032年までのオリンピック独占放映権を持っているアメリカのNBCと親会社コムキャストは、保険でカバーされない再延期ではなく中止の方が損害が少ないということです。
もちろん世界の世論が「アスリート・ファースト」だし「人命尊重」だから中止になるのですが、こうした資本の論理も働くということです。

それにしても、こうしてPCに向かってるデスクの1.5メートル先を、Go to Travelしてる旅人や口角泡を飛ばして説明してる人力車が、ワンサカぞろぞろと群れを成して通っているのです。
若い人は感染してても無症状で終わってしまいますが、高齢者にはたまったもんじゃありません。
医療インフラの低い貧しい日本ですから、感染したら、ボクのようなボンビーな高齢者はトリアージされて、死ぬしかありません。

by 辻原 生 (2020-12-14 14:51) 

ChinchikoPapa

辻原 生さん、コメントをありがとうございます。
いまごろ東京2020の舞台裏では、さまざまな鞘当てや駆け引きが「資本の論理」で繰り広げられているのでしょうね。中止の方が「資本」にも人命にもダメージが少ない……ということなら、まちがいなく中止になるのでしょう。
ところで、PCがあるデスクの1.5m前を、Go toトラブル…もとへGo toトラベルしている俥の観光客がいるということは、辻原さんは浅草か鎌倉の近くにお住まいですか。浅草寺や長谷寺は、厄除けの古刹として有名なのですけれど、厄招きになってたりするとたまらないですね。大田南畝がいたら、「御守を 授かり詣でと 厄払い もみじ見ころな 厄招き旅」なんて狂歌を詠みそうです。
わたしも、昔のような体力はありませんので、感染すると非常にマズイことになるんじゃないかと思います。近くの小学校では先々週、すでに感染している生徒も出てますので、ひしひしと身近に迫るリスクを感じます。「スペイン風邪」のパンデミックケースに倣えば、2022年の冬まで同じような状況がつづくのではないかと懸念しますね。
by ChinchikoPapa (2020-12-14 19:04) 

辻原 生

南畝の狂歌、傑作ですね!
こちとらは「厄バラマキ旅」の人が目の前をぞろぞろ歩く訳ですが・・・。
あ、ぼくんちは浅草でも鎌倉でもなく、京都の嵯峨野に「竹林の小径」って忌々しい名所がありましてね。その中というか一角に住んでいるのです。20年ほど前に街中から居を移したのですが、当時はたまにそぞろ歩きのカップルが通るくらいで、さやさやと竹の葉擦れや野鳥の啼き声が聴こえていたものですが、10ほど前から渋谷のスクランブル交差点みたくなっちゃいました!(笑)
道幅が狭くて、ボクの座ってる目に位置から1.5~4メートルの間をゾロゾロ…ってことになってます。

スペイン風邪と言えば父方の祖父母が亡くなっています。父が3歳だか4歳だかの時で、5日間の間に相前後して亡くなったそうです。
その所為で父もボクも、感染症には敏感になっていました。

おっしゃる通り”TOKYO2020+1”はトンデしまい、完全終息させた中国では”北京冬季オリンピック2022”の準備が着々と進められていて開催されることでしょうけれど、日本は先に言ったように再来年の冬では未だ終息しておらず「入国禁止国」に指定されていることでしょうから、可哀想ですが日本のアスリートは参加できないってことになるでしょうね。

なんかテーマから外れた話になってしまってすみません!
が、しつこく生きてやりましょうね!

by 辻原 生 (2020-12-15 16:05) 

辻原 生

大間違いをしました!
「南畝が詠みそう」ということですから、落合道人さんの作だったんですね!
すみませんでした。
狂歌も詠める道人さん、まさしく傑作です。
by 辻原 生 (2020-12-15 16:10) 

ChinchikoPapa

辻原 生さん、コメントをありがとうございます。
わたしも、嵯峨野の竹林の小径は子どものころから現在まで、繰り返し散策したことがあります。天龍寺から野々宮社をへて、落柿舎へと向かう途中の道筋でしたよね。
子どものころは、人っ子ひとり見かけない寂しげな細い小径でしたけれど、「渋谷のスクランブル交差点」といわれるところをみますと、現在はよほどとんでもないことになっているのでしょうか。(汗)
うちの肉身に、幸運にもスペイン風邪の犠牲者は出てませんが、感染症が気になるのは、当時の話を祖父から聞かされているからかもしれません。拙サイトで調べものをしていましたら、山手線の明治期にみられた駅の設置反対運動の中に、「駅は人が集まり伝染病を運ぶから」という理由が挙がっていましたが、100年の時を超えて現実化しているような気がします。
大田南畝の作にしては、あまりにヘタクソな愚策なので、「??」と思われたのではないでしょうか。w お目汚し、こちらこそすみません。
by ChinchikoPapa (2020-12-15 17:19) 

辻原 生

まさしく、「その道筋」に住まいおります。
遅きに失した”Go to トラブル”の一時中断で、ちっとはスクランブル交差点状態が鎮まるかと思いきや、なにをトチ狂ったか、嵐山の商店会(と京都市長)が、この道筋を灯篭で埋め尽くす「花灯篭」とかって(雪降ってるのに!)ライトアップをしてて、やれやれです。
まぁ、寒いので閉め切ってはいるのですが、時々、換気するときは、表の様子を伺って、なるべく人声の少ないチャンスを狙ってパッと開け、人力車夫の大声の説明が聴こえはじめると慌てて閉めて、を繰り返しています。

この国は、商人も政治屋も「目先の金」だけに心を奪われて、先を見据えた経済的利益を考える能力がまるでないようです。(人の命なんぞナンも考えてないのは当たり前だとして。)
このコロナ隠蔽は、日本経済に壊滅的な打撃を与え、徹底してPCR検査→強制隔離→治療している国々だけが栄える時代になって行くことでしょう。(中国が核になる経済圏の発展ということに、否が応でもなっていくのでしょう。)

なんか、本題からメッチャ乖離していき、ジジイの愚痴の垂れ流しっぽくなってきていますので、しばし、読者に徹するよう心します。

しかし(決して終活なぞ考えてまっせん!)、ボクがこちらにお邪魔したきっかけになった中出三也先生の絵は、どうしたものかと年の瀬を迎えてちょっと考えてしまいます。
正月にも帰ってこない息子は、この絵のあることも、中出先生と我が家の交流も、知らないわけで、ある日、金庫の中で見つけても猫に小判なわけで・・・。

そろそろ賀状の準備に入らなきゃ。
どうぞ、良いお年をお迎えください!


by 辻原 生 (2020-12-18 12:06) 

ChinchikoPapa

辻原 生さん、ごていねいにコメントをありがとうございます。
遅すぎるGo Toの中止というより、パンデミックの最中に打ちだす施策としては認識錯誤もはなはだしく、東京では感染者が1,000人/日超えの勢いになっています。この責任は、いったい誰がとるのでしょうか。よそのちゃんとした政権とはちがって、意思決定した政府自民党はまったくなんの責任もとらないのでしょうね。
COVID-19禍の中で「終活」なんてしゃらくさいです、これからは「創活」ですね!w わたしも、まだ当分仕事から足抜けできそうもありませんので、なかなか思いどおりの「創活」ができないのですが、まだまだ浅い取材や調査で満足できない拙サイトですので、より充実したコンテンツづくりが、仕事を抜けたあとの「創活」目標にしています。
中出三也の作品ですが、作者の美術館が存在しないので難しいかもしれませんが、地元の美術館あるいは資料館に引き取っていただくという手があります。三重県立美術館は、フォービズムの作家たち(下落合の佐伯祐三の作品や資料なども含まれます)の作品蒐集には熱心なようですし、地元に在住した画家でしたらポジティブに考慮してくれる可能性がありますね。
辻原さんも、よいお年をお迎えください。そして、竹林の小径の「密」にはお気をつけて、くれぐれもご自愛ください。

by ChinchikoPapa (2020-12-18 12:50) 

辻原 生

ご助言をありがとうございました。
今は電車に乗るのも怖いので、なんとか2年間(コロナ終息まで)生き延びて帰省し、県立美術館にあたってみようと思います。
by 辻原 生 (2020-12-18 14:19) 

ChinchikoPapa

美術館側の、いいお返事が聞けるといいですね。
よいお正月をお迎えください。>辻原さん
by ChinchikoPapa (2020-12-18 14:28) 

辻原 生

ご親切なご助言をありがとうございました。
ご健勝で益々のご健筆を!

by 辻原 生 (2020-12-19 21:10) 

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