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いまさらながら益満邸の「テニス」。 [気になる下落合]

 

 いまさらながらだけれど、佐伯祐三『下落合風景』の中で最大サイズ「テニス」(50号)の描画ポイントだ。目白文化村の中にはテニスコートが3箇所あったが、第二文化村の南端にあったのがこのコート。コートは益満邸の敷地内に造られていて、描かれている2階建ての家は、すでに第二文化村の外側に建っていた一般の日本家屋だ。おそらく、テニスコートは益満家だけではなく、文化村に住んだ近隣の住民たちも利用しただろう。
 この作品は、もともと落合尋常小学校Click!に寄贈されて、ずいぶん長い間、校長室の壁に架けられていたが、現在は新宿区の教育委員会で保管されている。わたしは、もう幾度となくこの作品を目にしているけれど、間近で観た画面は厚塗りの佐伯作品らしく、絵の具の剥離やひび割れが目立っていた。でも、いまではきれいに修復され、描かれた当初に近い姿へともどっている。佐伯祐三が、これだけ大きなキャンバスに絵を描くのは、美術学校時代の前後を除けばめったにないことで、「下落合風景」Click!シリーズばかりでなく、佐伯の全作品を見わたしても異例のサイズだ。
 描かれたテニスコートの北側、画面でいえば右手の外れに、しゃれた洋風と思われる益満邸と、和洋折衷の中野邸がつづいて建っていたはずなのだけれど、佐伯祐三は前回の「文化村前通り」Click!と同様、またしても第二文化村のハイカラな屋敷を、あえて画角から外して描いている。画面の右隅に、チラリと白い建物らしい構造物が描かれているが、益満邸の一部かもしれない。益満邸は1945年(昭和20)4月13日の空襲でも焼けず、戦後はこのテニスコートの敷地全体に、小規模な工房ないしは小工場の建屋が造られていた。現在は、敷地全体に低層マンションが建っている。もともと200~300坪と広い第二文化村の住宅敷地が、戦後になると次々に細分化利用されていく。第二文化村のテニスコートも、企業の社宅が3棟も建設されることになった。

 このテニスコートを調べているとき、大正期に第二文化村の敷地を購入して邸宅を建てた、陸軍大尉(当時)の益満行厚の先代が、あの益満休之助であることをたまたま知った。徳川慶喜の命を受けた山岡鉄舟とともに、江戸へ攻めてきつつあった西郷隆盛の陣へおもむき、西郷と勝海舟との会談を実現した人物のひとりだ。駿府まで迫った西郷陣へ出発する直前、山岡は赤坂氷川明神裏の海舟邸を訪れるが、そこになぜか薩摩藩士の益満休之助が寄宿していたのにビックリしてしまう話は有名だ。三田にあった薩摩藩邸攻撃で捕らえられ入牢していた益満を、勝はいち早く連れ出して自邸、つまり“勝家預り”としてかくまっていた。幕府と薩長軍との戦闘が江戸へと及んできたときのことを想定し、勝はあらかじめその“落としどころ”までを考えていたことになる。
 教科書的な表現の歴史書では、山岡鉄舟とともに江戸を戦火から救った人物のひとりとして、益満休之助の名前を挙げている本も少なくないけれど、江戸東京の地元、特に町場の記憶(地方史)では、彼の評判はすこぶるよろしくない。薩摩藩邸を拠点とし、倒幕を実現するため江戸市中に混乱を引き起こそうと、さまざまな工作や謀略(放火・強盗など)を行っている。また、示現流(薩摩独特の剣法)による、江戸市民への無差別辻斬りも繰り返していた。その工作隊の頭目のひとりが、益満休之助だった。その薩摩の記憶が、いまでもお年寄りたち(下町中心)へと伝承されており、地元の記憶は100年や200年では消えない。町奉行所の探索で、“火付盗賊”あるいは“アルカイダ型市民無差別テロリスト”のアジトが三田の薩摩屋敷であることを突き止めた幕府は、さっそく薩摩藩邸を包囲して攻撃、彼らを捕縛している。
 
 話が横道へそれてしまったけれど、文化村にあったテニスコートのうち、なぜかヒツジが繋がれていた第一文化村の「中央テニスコート」Click!は、もともと箱根土地が堤康次郎の趣味から柔道場/相撲場を建設したものの、利用者がほとんどまったくなかったため、すぐにコートへと造成しなおされた。でも、ほどなくそのコートもつぶされ、第一文化村の敷地として販売されてしまう。
 文化村で結成された「若人会」Click!も、盛んに利用したと思われるテニスコートだが、戦前まで実際に利用できたのは、第二文化村の南西にあったこの益満邸のコートと、第一文化村の北東にあった長谷川邸のコートの2箇所となっていた。

■写真上は、1926年(大正15)10月11日に描かれたとみられる、佐伯祐三『下落合風景』の特大サイズ「テニス」。は、現在の同所。いまの文化村では、コートよりも「工場跡」の記憶が濃い。
■写真中:1936年(昭和11)の空中写真。コートの西側に、作品に描かれた日本家屋が見える。
■写真下は、1947年(昭和22)のテニスコート。空襲にも焼け残った一帯で、コートの通り沿いにアパートのような建物が見えている。は、1926年(大正15)「下落合事情明細図」の益満邸あたり。当時は建っていたはずの建物が、2階建ての日本家屋をはじめまったく描きこまれていない。


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ChinchikoPapa

takagakiさん、またまたnice!をありがとうございます。
by ChinchikoPapa (2007-04-20 15:30) 

risu

いえいえ、
きっちり調べ上げての記事、脱帽です。
by risu (2007-04-20 20:09) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2010-10-16 12:27) 

岸本明人

「益満行厚の先代が、あの益満休之助」とあるが、益満行厚の先代(父)は益満邦介で益満家の四男です。益満休之助は次男です。ちなみに長男益満行敬の孫の一人が私の祖母です。
by 岸本明人 (2013-12-09 11:26) 

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