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小使いにされてしまった満谷国四郎。 [気になる下落合]

 

 目白や池袋界隈にあった、成蹊学園や成蹊高等女学校(現・成蹊大学)の創立者である中村春二と今村繁三は、駈け出しで貧乏な画家や音楽家たちを支援したことでも知られている。特に、下落合に住んでいた中村彝Click!を、今村繁三Click!は死ぬまで援助しつづけたことは以前にも触れた。彝の親友である曾宮一念Click!や日本作曲家協会の山田耕筰なども、彼から援助を受けていた。今村も晩年には、下落合の聖母坂下に住むことになる。
 満谷国四郎や中村不折Click!が主宰していた太平洋画会へ、明治の末、中村彝が白馬会から移籍してきて文展へ出品したことにより、その作品群が今村繁三の目にとまることとなった。今村は文展のほか、太平洋画会が開催する展覧会にも、毎回欠かさず出かけていた。おそらく、1910年(明治43)ごろのことだろうか、ある日、太平洋画会展を観に行った今村は、みかん畑を描いた水彩画の作品の前で足を止めている。いかにもこなれていない絵で、表現の野暮ったさを感じた彼は、傍らで展示作品の番をしていた小使いに話しかけた。1942年(昭和17)の『新美術』(旧・みづゑ)9月号の記事から、そのときの様子を忠実に再現してみよう。
  今村「これは自体、画になっておらんね!」
  小使「そうですか、どうしてでしょう?」
  今村「写生は画ではないさ。芸術品には気品というか、精神がこもってなくちゃ・・・」
  小使「・・・・・・」
  今村「この画を見たまえ、単なる写生じゃないか! こんなものは画じゃないさ」
 
 芸術作品にはおしなべて謙虚な今村にしては、めずらしく語気荒く決めつけるような言い方をしている。この日、たまたま虫のいどころが悪かったのかもしれない。以下、現場の様子を当の記事からそのまま引用してみよう。
  
 小使は苦笑した。今村氏が画に近よつてよく見ると、そこには大家満谷国四郎の落款がある。内心少々慌てたが
  満谷国四郎ともある人がこんな下らぬ絵を描くのかね、驚いた
 とお茶を濁すと、小使氏が恭々しく名刺を出した。見ると「太平洋画会々員 満谷国四郎」とある。
 今村氏が満谷氏と知つたのはこんな関係からである。
  
 数日後、小杉未醒とともに中村彝の師匠にあたる小使いさんClick!が、今村邸へ訪ねてきた。今村はよほど決まりが悪かったのか、「画家で喰えずどうせ乞食をするのなら、いつそ巴里の本場へ行つて乞食をしたまへ、乞食の費用は僕が出さうぢやないか」と、満谷国四郎へ申し出た。展覧会における非礼を、今村流のやり方で最大限に詫びたつもりなのだろう。
 こうして、満谷はあこがれのパリへと再び旅立つことができたのだ。後年、事業に失敗した今村繁三は、満谷への“お詫び”がとてつもなく高くついたことについて、「今になつてみると土産に貰つた画で、僕の方が得をしたやうなことになつたのかも知れないよ」・・・と述懐している。
 
 確かに、こんな顔をしたおじさんが、あまりきれいではない“なり”をして会場のイスに座り、ときどき「ゴホッ、ウ~ムムム・・・」とか言ってヤカンから湯を注いで飲んでたとしら、展覧会の番に雇われた小使いさんのように見えてしまうかもしれない。「ちょいとあーた、展覧会はいつまでやってますの?」とか、「ねえおじさん、手洗いどこ?」とか、なにかと便利に使われてしまいそうだ。惜しいのは、今村へすぐに名刺を差し出してしまったこと。「へい旦那、作者が来やしたら、そうよく言っときまさ」とかなんとか今村を送り出し、後日、「太平洋画会会員/小使番/満谷国四郎」という名刺を持って今村邸を訪ねたら、もっとずっと長く楽しめたのに・・・。そういう洒落っ気や茶目っ気は、残念ながら彼にはなかったようだ。
 さて、展覧会の小使いさんにされてしまった満谷は、パリの空の下で今村のことをどのように考えていたのだろう。のちに、今村も満谷も中村彝も曾宮一念も、みな下落合の住人になるなど思いもしなかったころの、めずらしいエピソードだ。

■写真上は、満谷国四郎のアトリエ跡。野鳥の森公園の北側、子安地蔵通りに面して建っていた。九条武子Click!邸とは斜隣りの敷地にあたる。わたしの学生時代から、ここには豪邸が建築途中のまま20年近くも放置されていて、ついに完成を見ずに先ごろ低層マンションとなってしまった。は、小使いさん顔(?)の満谷国四郎。
■写真中は、武蔵野鉄道の上屋敷駅Click!近くにあった成蹊高等女学校。「高田町事情明細図」(1926年・大正15)で、ライトの小路からもすぐだ。は、1936年(昭和11)の空中写真。
■写真下は、満谷国四郎『杏花』(1920年・大正9)。は、下諏訪の旅館・桔梗屋における記念写真。奧から金山平三Click!大久保作次郎Click!、満谷国四郎、柚木久太の面々。満谷は、柚木とともに1911年(明治44)に渡仏している。確かに、ひとりだけちょっと違う印象を受ける。


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ハナボッチ

いまさらですが、あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。ここの敷地には小学校の頃、友人が住んでおりまして(現在も裏手にお住まいです)、なんとプールがあったのです。近所のよしみでよく遊ばせてもらいました。広い敷地内には大型のコリーが2頭・・・。スケールの大きい家でした。建設中だった豪邸は本当に時間がかかっていたので、核シェルターを作っているに違いないと家族で話題にしていたことを思い出します。プールの写真残っていないかな。
by ハナボッチ (2007-01-10 12:54) 

ChinchikoPapa

ハナボッチさん、おめでとうございます。
プールの話は初耳です。わたしが下落合を通ってアパートへ帰宅していた学生時代あたりから、90年代までずっと「建設中」でしたので、当初は建設主が急に亡くなられたのではないか・・・などと勝手に想像してました。最後のころなどは建築途中なのに古びて、廃屋のイメージがありましたね。
それでも、ずっと土地ごとそのままだったところから、途中で設計図に飽きられて違う家を建てたくなったのか?・・・なんて、どんどん想像はふくらんでいきました。(笑)
by ChinchikoPapa (2007-01-10 19:46) 

うつぎ・れい

お隣の長崎村全体の取り纏めホームページを作っています。

関連する周辺情報へのリンクを張っている途中で
たまたま飛び込んで大変面白く、また感慨深く読ませていただきました。
丹念な情報収集と書きっぷりに本当に頭が下がります。
こういう優れたサイトがあるよ…という紹介の意味で当方のリンク集の中にも入れさせていただきました。当サイトはリンク機能の極限を目指しておりますので、膨大なリンクの中の一つとしてですが、隣の西落合や下落合とはこんな素敵な場所なんだよ…ということを、長崎村住人に伝えるためのものなので、この形でのリンクをどうぞご了承くださるようにお願い致します。

長崎村側からは葛ヶ谷分水以南としてしか認識されていない落合が、このように素敵な場所だとは、やはり読み込んで見ない限りは分からないものだと改めて痛感させられました。
その土地の歴史や人々について深く知らない限り、その町に長く住んでいても、少しもその町を知ってることにはならない…というのは、長崎村について調べていて分かったのですが、何処の町についてもそこを愛していなければそうなのだ…と改めて思わされました。
その意味では、その町を愛している人しか、その町を紹介することなどしてはならないのだ…と思います。
愛情のある素晴らしいページを公開してくれていて、どうもありがとう!

むろんケチを付けるつもりは毛頭ありませんが3つ気になった点があります。出すぎているのは分かってるのですが、気がつくと言わずにいられないアホなので、どうかご勘弁を…

1 Click! という文字の挟み込みがやはり気になります。普通にリンク色を設定しておけば分かるのではないでしょうか?( リンク文字の色を変えるのがお嫌いなのでしょうか? )
2 画像の説明はやはり画像の直ぐ下にあって欲しいです。付き合わせる為に説明文と画像の直ぐ上にアンカーを付けておいて、相互にリンクを貼る…という方法もありますが、それだと一々履歴にも入ってしまいますので、やはり近接が妥当かと。小遣いさんの画像を全部読み終わるまで今村繁三氏の肖像と思い込んでました。
3 昨年とか今年のような相対的な表記だと、これを後になって読んだ者には直ぐにそれが何時のことかが分からない点。
私自身はそうしたものを絶対年表記にしています。
以上
うつぎ・れい
by うつぎ・れい (2007-01-19 08:33) 

うつぎ・れい

あと別のページですが。豊島長崎富士塚」(浅間神社)…とあるのは高松富士浅間神社のことでしょうか? それとも江古田の…あれっあっちは練馬かな?
by うつぎ・れい (2007-01-19 13:08) 

ChinchikoPapa

うつぎれいさん、ご丁寧にありがとうございます。
また、リンクを張っていただき恐縮です。重ねてお礼申し上げます。膨大なサイトをお作りで、びっくりいたしました。このように、隣り町同士がネットワークでつながるのは、とても楽しいしうれしいですね。(^^ 少し前に、練馬の江古田サイトともつながっていますので、だんだんコミュニケーション面積が増えてきました。点が面となって、街の情報や歴史が掘り起こされ、なんとなく地域の特徴や気質(かたぎ)、アイデンティティみたいなものがネット上に形成されていくのは、とても楽しいです。

●1 Click! という文字の挟み込みがやはり気になります。普通にリンク色を設定しておけば分かるのではないでしょうか?( リンク文字の色を変えるのがお嫌いなのでしょうか? )

実は、ほかにもこのご指摘を受けていたのですが、Webのユニバーサルデザインではリンクが張られている場所は明確化しておかないと色弱の方はわかりにくい・・・というような項目をどこかで読みまして、わたしも「美しくない」とは思いつついまの表現方法を採用しているしだいです。

●画像の説明はやはり画像の直ぐ下にあって欲しいです。付き合わせる為に説明文と画像の直ぐ上にアンカーを付けておいて、相互にリンクを貼る…という方法もありますが、それだと一々履歴にも入ってしまいますので、やはり近接が妥当かと。小遣いさんの画像を全部読み終わるまで今村繁三氏の肖像と思い込んでました。

説明を注釈的に最後へ配置するのは、わたしの好みです。(^^; 文中に入れますと、読んでいるリズムが中断されてしまう・・・というような感覚がありまして、あえてそのようなレイアウトを採用しています。わたしも、アンカーポイントを使えればそうするのですが、So-netブログでは残念ながらそこまでの細かな機能はまだサポートされていません。

●昨年とか今年のような相対的な表記だと、これを後になって読んだ者には直ぐにそれが何時のことかが分からない点。私自身はそうしたものを絶対年表記にしています。

これは、おっしゃるとおりです。当初は、記事下の日付を確認すれば済むだろうとタカをくくっていたのですが、コンテンツが思いのほか貯まってきていますので、できるだけ絶対表記を心がけるようにいたします。わかりづらくてすみません。

あと、「長崎富士塚」(浅間神社)は大正当時の呼称です。現在の名称ですと、後者の高松富士浅間神社のことです。
by ChinchikoPapa (2007-01-19 14:27) 

良寛さん

満谷、柚木など興味深い記事に楽しく拝見させていただいています。
私は満谷、柚木について調べております。「下諏訪の旅館・桔梗屋における記念写真。」はこの記念写真はどこに掲載されていたのでしょうか。雑誌であれば雑誌名、号数等年月などお教えいただきたくお願い申し上げます。
by 良寛さん (2009-09-06 10:31) 

ChinchikoPapa

良寛さん、コメントをありがとうございます。
当該の写真は、日動出版の『金山平三』に掲載された写真だと思い、改めて手元の同書を確認してみたのですが見当たりません。おそらく、金山平三の資料を美術資料館や図書館で調べているとき、あるいは知人に資料を借りたときに、金山関連の画集ないしは図録等で見つけたのではないかと思います。どこかにコピーがあるかもしれませんので、見つけましたら掲載媒体をこちらでご報告します。とりあえず、お役に立てずにすみません。<(__)>
by ChinchikoPapa (2009-09-06 19:06) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2010-04-15 15:29) 

ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>kiyoさん
by ChinchikoPapa (2011-03-28 12:25) 

pinkich

いつも楽しみに拝見しております。こちらの記事は大変面白く何度も繰り返し読んでいます。満谷国四郎はかなり口下手だったようですが、茶目っ気があるようですね。今村氏にしっかり渡欧費用を支援させているところが心憎いです。パトロンと画家の古き良き時代を感じさせる逸話ですね。
by pinkich (2016-02-14 15:19) 

ChinchikoPapa

pinkichさん、コメントをありがとうございます。
このころの満谷国四郎は帝展無鑑査の画家であり、外遊のおカネに困るほど貧乏はしてなかったと思うのですが、渡りに舟でちゃっかり今村繁三に渡航費を出させているのが、茶目っ気のある満谷らしいエピソードですね。
この記事以来、親しい友人の間で満谷国四郎のことが話題になると、名前を呼ばずに「小使い」さんと呼ぶことが多くなりました。w
by ChinchikoPapa (2016-02-14 18:55) 

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