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鶴田吾郎の地蔵堂アトリエ写真。 [気になるエトセトラ]

 鶴田吾郎の下落合アトリエClick!(旧・下落合645番地)、あるいは最終地である旧・要町2丁目33番地のアトリエClick!は語られることが多いけれど、下落合から最初に引っ越した地蔵堂のアトリエ(旧・長崎町字地蔵堂971番地=旧・要町1丁目61番地)は触れられる機会が少ない。先日、F.L.ライトの小路の三春堂さんのご好意で、昔の地蔵堂アトリエのたいへん貴重なカラー写真を入手することができた。
 大正末に下落合から長崎町へ引っ越した当初から、鶴田は地蔵堂にアトリエを持っていたわけではないようだ。まず自宅を借り、しばらくして1927年(昭和2)に母屋の北側へアトリエを建設している。このアトリエの北側は、小さな川の流れに面していたという。おそらく、洪水防止か農業用水として掘削された、谷端川の東西へと抜ける分水流だろう。
 1926年(大正15)に作成された「長崎町事情明細図」を見ると、地蔵堂の北側に「ツル田」の文字が見え、分水流から少し離れた位置に描かれているが、これが当初の母屋だったと思われる。その後、昭和初期に母屋の北側へアトリエが建てられたらしい。この小流れは戦後、谷端川が暗渠化あるいは埋め立てられたときと同時に、おそらくふさがれたのだろう。旧・谷端川の多くのケースと同様に、現在では街中の道路になっている。
 
 鶴田吾郎は下落合時代、アトリエは持っておらず友人知人のアトリエを借りて制作していた・・・と言われることが多い。中村彝のアトリエClick!も、ときどき借りていたようだ。でも、知り合いの日本画家の支援で、1923年(大正12)に小さなアトリエらしきものを下落合に建てたらしい記録も残っている。その画室が、下落合645番地にあった自宅内に増築されたのか、あるいは自宅から離れた下落合のどこかに建てられたのかは不明だ。明らかに鶴田のアトリエ写真と呼べるものは、この地蔵堂アトリエの写真が初めてということになるだろう。
 でも、鶴田はしばらくすると地蔵堂にアトリエだけ残して、自宅のほうは長崎富士のある浅間神社近く(高松2丁目)の借家へと越してしまう。1928年(昭和3)ごろのことだ。そして、長崎富士近くの借家から、鶴田は地蔵堂アトリエへ通って制作をつづけた。やがて、現在の要町2丁目に広い自宅とアトリエが完成すると、地蔵堂アトリエと浅間神社近くの自宅は引き払われた。

③ 

 写真を見ると、撮影された当時は地蔵堂周辺にかなり緑が多かったのがわかる。玄関の周囲()は、門が見えなくなるほどの豊かな生垣がめぐっていた。左の電柱のある生垣の切れ目が、鶴田邸の玄関口。アトリエを東側から見た写真()では、屋根の上に尖がりの立て物が載っている。右手が北面で、大きなイチョウの木が見えているさらに右手が、谷端川の分水流が埋め立てられた道路側だ。より接近した同じ北面の写真()を見ると、屋根の庇近くまで設置された採光窓の様子がよくわかる。アトリエを西側から捉えた写真()は、分水流(道路)沿いの大イチョウが左手に見えている。なぜか、西側の屋根上には尖り立て物が見えない。屋根に近い壁面の様子は、まるで下落合の八島邸Click!のような、ずいぶん古い意匠をしている。
 その後、地蔵堂アトリエは、創型会を結成した彫刻家・村井辰夫氏が使用することになる。これら一連の古い地蔵堂アトリエの写真は、村井氏のご家族の方が探してくださったものだ。

■写真上:西側から眺めた地蔵堂アトリエ。(旧・長崎町字地蔵堂971番地/1960年代の撮影か?)
■写真中は、1926年(大正15)の「長崎町事情明細図」。すでに「ツル田」の文字が見える。は、地名の由来となった地蔵堂の出世子育地蔵尊。まるで入牢しているような眺めが悲しい。
■写真下は、鶴田邸の玄関口。は、アトリエを東側から望む。は、北面の採光窓の様子。写真のキャプションには南側と記載されているが、北側の誤記だろう。は、西側からのショット。


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