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たまには換気の佐伯アトリエ。 [気になる下落合]


 佐伯祐三アトリエが、梅雨時の空気の入れ換えをしているので、内部を撮影させていただいた。このアトリエ、大磯の大工に造らせたということなのだが、関東大震災Click!で被害を受けて、わずか築2年で修理の手が入れられている。ところが、佐伯が自分で増築した西側の部分には、地震による被害がほとんどなかったため、佐伯は相当まわりへ自慢していたようだ。
 1923年(大正12)9月1日、佐伯夫妻は第1回めの渡仏をひかえ、信州へ避暑に出かけていて大震災には直接遭遇していない。震災直後、米子夫人の実家である池田一家がアトリエへ避難してきて、しばらくここに住みつづけることになった。池田家は新橋で象牙輸入商をしていたが、震災で店舗と自宅は全焼。渡仏用に準備していた、佐伯夫妻の荷物はすべてが灰になった。
 
 佐伯は、信州から貨物列車に乗って単身東京へもどり、山田新一と合流して東京の被災地を見てまわることになる。スケッチブック片手に歩きまわっていたようで、何度か流言に惑わされ興奮した自警団からとがめられたようだが、できるだけスケッチをつづけている。でも、残念ながら震災風景のスケッチは現存していないようだ。
 
 佐伯の死後、このアトリエにはさまざまな人びとが住んだようだが、のちに林泉園の北側にある中村彝アトリエClick!へと移転する洋画家・鈴木誠も、1929年(昭和4)まで佐伯アトリエに住んでいた。その後、1972年(昭和47)まで米子夫人が住みつづけることになる。佐伯アトリエと彝アトリエの距離が近かったため、当時は文字どおり、手鍋を下げて何度か両アトリエ間を往復したと、先日お話をうかがった。
 
 その、もうひとつの中村彝アトリエだが、先週の金曜日、より精細な記録調査が早稲田大学の手で行われることになったと、お住まいの方よりお知らせいただいた。調査の期間は長めなので、このまま保存へ向けた流れに弾みがつけばいいのだけれど・・・。
 佐伯祐三と中村彝のアトリエが並存してこそ、初めて画家たちが去来した下落合の歴史や風情が、色濃く保たれると思うのだ。

■写真:梅雨の合い間を見つけて、換気中の佐伯祐三アトリエ。内部は、南側に隣接していた母屋を解体後の状態から、ほとんど変化していないClick!のがわかる。


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さいれんと

こんにちは
ただいま大磯に住んでます。山王町という町ですが大正15年3月に
佐伯祐三氏が借家をしたと言う記述と、下落合の家を大磯の大工が造ったとありますが、佐伯の絵に描かれた「Y氏」「運送屋」の八代さんと言う方と同一人物なのでしょうか。山王町のどの辺りに借家はあったのか興味があります。
by さいれんと (2008-07-02 19:01) 

ChinchikoPapa

さいれんとさん、コメントをありがとうございました。
実は、大磯の方からのコメントをお待ちしておりました。(^^ 一昨年あたりでしょうか、大磯町役場と大磯郷土資料館(城山公園内)の2箇所へ、山王町418番地とはどのあたりだったのかを問い合わせておりました。でも、いまにいたるまでお返事をいただけないでいます。^^; 「山王町」という地名から、現在の東海道線の線路際、大磯町大磯418番地のことではないかな?・・・と、想像していました。大正期の大磯地図が手元にないので、確認ができなかったのですね。
「大磯の大工」は、もともと別荘建築の需要が高かった大磯在住の大工なのか、それとも東京から建築仕事の多い大磯へと転居した大工なのかは、残念ながら不明です。「運送屋」や「Y氏」とは、別人ではないかと思います。
by ChinchikoPapa (2008-07-02 21:54) 

さいれんと

興味深い解答ありがとうございます。現在の山王町418は我が家から歩いて数分の場所です。大正期でもそれほど大きな差はないと思われますが、現在でもそれなりに情緒が保たれている場所です。
東海道線の線路の南側、大磯駅から徒歩10分位の線路に沿った住宅街です。先日新宿区の歴史博物館へ佐伯公園の現在を問い合わせました。アトリエと大工から贈られた鉋に非常に興味がありました。
Papaさんは、大磯にも非常に詳しいようで、これからもいろいろ教えてください。
by さいれんと (2008-07-03 08:16) 

ChinchikoPapa

さいれんとさん、重ねてコメントをありがとうございます。
やはり、大磯町大磯418番地でよかったのですね。^^ ちょうど、旧東海道の松並木道が高麗山側へと二又にわかれていて、少し歩いたところの「山王町」交叉点を左へ折れた線路際です。山側から見ますと、天王山城跡の下あたりになりますね。ようやく、はっきりと場所を特定することができました。ありがとうございました。今度、大磯へ出かけたら(帰ったら^^)、さっそく立ち寄ってみたいと思います。
大磯のあちこちが、子供のころの遊び場でした。家は平塚海辺の虹ケ浜にあったのですが、自転車で花水橋をわたってしょっちゅう大磯の海や山で遊んでいました。こちらの記事にも書きましたが、駅前の岩崎別邸(エリザベスサンダースホーム)をはじめ、随所の巨大別荘に忍び込んでは虫を捕まえたりしてました。大隈重信だか、隣りの陸奥宗光だかの別荘の庭に入り込んで、親ともども怒られた記憶があります。(笑)
大阪出身の佐伯が、アトリエ普請のできる大磯(あるいは東京)の大工を直接知っていたとは思えず、1920年(大正9)ごろに誰かから紹介されたと思うのですけれど、その紹介者をずっと探ってきましたが、いまだつかめずにいます。東京美術学校の関係だとは想像するのですが、佐伯にカンナを贈ったこの大工がずっと気になっているんですよね。つまり、アトリエ建築が得意な大工なら、佐伯アトリエだけではなく、他のアトリエも手がけていると思うからなんです。下落合はアトリエがあちこちで見られる街でしたので、この大工の仕事がほかにもあったのかもしれません。
また、なにか情報がありましたら、お知らせいただければ幸いです。(^^ ありがとうございました。
by ChinchikoPapa (2008-07-03 11:09) 

さいれんと

駅前のサンダースホームは今も森ですね。大きな縞蛇が澤田美喜記念館の館長さんの手にぶら下げられて遊ばれているとおっしゃてました。澤田美喜さんと子供達を育てられた唯一の証人の館長さんです。御歳90才、御自分でノモンハンの生き残りだと言われています。この町に住む村上春樹氏もノモンハンには取材で出かけていますね。荒涼とした草原に今も当時の戦車があったそうですね。大磯町418番地は強烈なオーラがある場所ですね。王城山(天王山)の麓、字堀之内という地域でしょうか?現在は作家のお父さんと娘さんが画家の一家が住まわれているのも因縁でしょうか。
ななめ向いのお宅は島崎姓の表札。大正の頃は周辺は畑だったようです。
駅から佐伯が借家迄歩いた道、およその想定がついてきました。
by さいれんと (2008-07-03 23:28) 

ChinchikoPapa

さいれんとさん、情報をありがとうございます。
大磯はうちのオスガキを連れて、実は毎年遊びに行っていました。子供のころに経験した、湘南のゆたかな海や山の自然を教えたくて、夏休みになると大内館に滞在してました。^^ エリザベスサンダースホームは、ほとんど昔と変わらない風情ですね。中に入って、しばし子供のころのことや澤田美喜さんのことを思い出していました。もうかなりおばあちゃんでしたが、一度お会いしたことがあるんですよ。
http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2005-12-02
大磯418番地に、いまも画家が住まわれているのは驚きです。まさか、アトリエ付きの当時の建物ではないですよね。大磯は戦闘機による機銃掃射だけで、海軍の火薬工廠があった隣りの平塚とは異なり、本格的な空襲を受けていないので、当時の建物が残っていてもなんら不思議ではないのですが・・・。余談ですが、千畳敷山(湘南平)の山頂へ、12.7cm高角砲(高射砲)を苦労して運び上げてB29を迎撃する準備をしていたけれど、艦載機が湘南平の下を飛んでるので、町へ向けて撃つわけにもいかず1発も撃てなかった・・・というエピソードが、まだ大人たちの間で笑い話として交わされていました。子供のころの湘南平には、いまだ高射砲陣地のコンクリートが残っていたのを、うっすらと憶えています。
佐伯祐三と大磯の接点は、第1次渡仏時のパリにおける薩摩治郎八とのつながりかとも考えたのですが、それ以前に「大磯の大工」のことを考えると年代的に合わないのです。薩摩治郎八は一時期、伊藤博文の別荘(蒼浪閣)を所有していましたので、やはり大磯とのつながりが濃いんですよね。
http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2006-09-22
山王町418番地の家は、はたしてアトリエを建ててもらった旧知の「大磯の大工」の斡旋によるものなのかどうか、それとも東京美術学校における誰かのつながりなのか、あるいは第1次滞仏時における人脈か・・・、まだまだわからないことの多い佐伯の周辺なのです。
by ChinchikoPapa (2008-07-04 11:02) 

さいれんと

こんにちは、以下「佐伯祐三の真相」からの引用では
http://www.rogho.com/saeki/aaa.html
1926年大正15年3月27日。一回目の渡欧から帰ってきた、佐伯の要望で大磯に家を吉園周造氏が借りたとなっています。借家は山王町にあった薩摩治郎八の使用人の家。当時薩摩別荘は御承知のように伊藤博文が母のために建てた別荘を買い取って其処に住んでいたようです。この使用人の名前がわかれば辿り着くのですが、残念ながら図書館で調べた一番古い大磯の住宅地図は昭和38年版です。これより40年程前が欲しいのですが残念です。周造氏には大磯の薩摩治郎八氏から借りた事にしてくれと祐三からの願いがあったとも書かれています。又大磯には若松安太郎(本名は堺誠一郎)と藤根大庭氏の別荘もあるからと祐三は伝えたようです。
この二人に人物の別荘は大磯では不明ですが、下落合の付近に二人の接点がありそうです。
新潮社の「佐伯祐三のパリ」年譜では1927年昭和2年7月、神奈川県大磯山王町の借家で、米子、弥智子と家族3人で静養する。とあります。
さしつかえなければ218番地は出典はどこからでしょうか?
by さいれんと (2008-07-04 14:04) 

ChinchikoPapa

佐伯祐三に関する、「吉薗資料」は悩ましいですね。わたしの手元に、吉薗周蔵のお嬢さんが発行された『自由と画布』も1号から4号まで資料として揃っているのですが、いままで深く足を突っこまずにきました。東中野に近い、小淀の元・吉薗治療院があったとされるあたりや、吉薗が結婚式を挙げた菓子屋跡、友人だったヨード治療で有名な牧野医師の元医院あたり、つまり吉薗と佐伯との接点があったであろうとされる地域はたんねんにたどっているつもりなのですが、いまいちリアルな確証が得られません。唯一、牧野医師とのつながりで中村彝と佐伯祐三が邂逅したという場面も、傍証が皆無の状態で、むしろ彝や佐伯の身近にいた人々からは「学生時代の佐伯から彝への私淑はともかく、ふたりに接点はなかった」との否定的な証言しか見つからない状況です。彝アトリエには、しじゅう誰かが入れ替わり立ち替わり付き添いでいたような環境ですから、その目を避けて彝と佐伯が会うということは、非常に考えにくい状況ではあります。
また、下落合在住の多数の画家たちのネットワークを中心とする資料類や、伝承類をさかのぼって細かくチェックしても、吉薗らしき人物の影は見えず、(彼の活動範囲や内実からしたら、どこかの誰かの目にとまり記憶にのこるはずなのですが)、存在感が非常に希薄なのです。その存在の希薄さを、すべて「陸軍特務」のせいとして説明してしまっていいのかどうか?・・・、地元の下落合では残念ながらそのような資料や伝承類、吉薗の存在を匂わすような気配は、わたしの知る限り、あるいは調べられる限りいまだ見つかっていません。
ただ、見つからないから存在しなかった・・・とはなりませんので、引きつづき佐伯の重要課題のひとつとして気にかけていきたいと思うのですが、下落合に暮した大正期の人物について、さまざまな調べ方や追究をこれまで経験してきていますけれど、残念ながら佐伯と吉薗とのつながりを感じさせる地元の資料類や伝承には、これまで一度も出くわしていません。だから、地元中心の“記憶”に視座をすえています当サイトでは、いまだ正面から取り上げていないわけでもありますけれど。^^ ただ、佐伯がパリで描いた『エトランゼ』の人物像は、非常に気になるところですね。
山王町418番地は、朝日晃の著作類にも登場していたかと思いますが、確か没後50年佐伯祐三展の図録年譜にも書かれていたかと思います。いま手元にないので、確実ではありませんが・・・。帰宅したら、チェックしてみます。

by ChinchikoPapa (2008-07-04 15:19) 

さいれんと

朝日晃著「そして佐伯祐三のパリ」の年譜の中に1927年7月大磯の山王町418番地の借家で米子と弥智子が一時休養する。とありました。200点近くの祐三作品を持ってあらわれた吉薗の娘の存在も不思議ですね。
by さいれんと (2008-07-04 20:11) 

ChinchikoPapa

すみません、お手数をおかけしてしまったようですね。
いま帰宅して図録を確認しましたところ、没後50年展ではなく、大阪近代美術館建設準備室が制作し、同展を主催しました、『生誕100年記念・佐伯祐三展』(1998年)の巻末年譜でした。
もうひとつのテーマとして、佐伯には習作があまりにも少なすぎる・・・というのも、厳然たる事実であり疑問なんですよね。いままでは、習作など制作せず一気呵成に描いたからだ・・・と説明されることがほとんどでした。確かに、下落合での仕事ぶりを見ますとそうなのですが、それにしても習作にしろスケッチにしろ、あまりにも少なすぎます。そういう意味では、吉薗明子さんの手元にあった200点前後の作品というのは、ようやく習作が見つかったか・・・というような感触も、どこかでしてますね。^^
匠秀夫がまとめた「パリ日記」の筆跡が、佐伯の字体によく似ていることも、ちょっと気になるところです。
by ChinchikoPapa (2008-07-04 22:12) 

ChinchikoPapa

もうひとつ、山王町418番地の佐伯自筆の元資料が残ってました。
佐伯祐三から、大磯に滞在中の佐伯米子に宛てた手紙(大阪の実家から出しています)で、1927年(昭和2)7月21日消印のものです。内容は、2回目のパリ行きのスケジュールが記載されています。
手紙の現物写真は、講談社が出版した朝日晃『佐伯祐三 絵と生涯』(1991年)の126ページに、封書の表裏と手紙の内容とともに掲載されています。
by ChinchikoPapa (2008-07-04 22:53) 

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