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「草津温泉」は大繁盛していたか? [気になる下落合]

 

 この『下落合風景』に描かれた、道の幅とカーブには特徴がある。目白崖線(バッケ)が描かれておらず、煙突が数本見えている。もちろん、バッケ下に展開した風景だろう。しかも、家の数もまばらで、畑地あるいは原っぱが拡がっている様子が描かれている。旧・下落合1~2丁目(現・下落合)の崖下には、1926年(大正15)現在、すでにこのような場所は存在しない。中小の工場(おもに染物や薬品の工場)と住宅が進出し、建物がかなり密に建設されている。佐伯は、土が積み上げられた土手のような、視点の高い位置からこの作品を描いている。

 周囲の景色や道幅から推定すると、この道は旧・下落合3~4丁目(現・中落合/中井2丁目)下の道、つまり中ノ道(中野道)Click!に間違いないだろう。鎌倉時代に拓かれたこの崖下の道は、江戸時代になると旧・下落合3~4丁目あたりから西では中ノ道、旧・下落合1~2丁目界隈では雑司ヶ谷道と呼ばれていた。しかも、このような急激なカーブを描く道筋は、崖線に沿うように刻まれた中ノ道といえども、そう何箇所も存在しない。
 左遠方に見えている煙突は、1926年(大正15)当時に中ノ道沿いにあった、このあたりで唯一の銭湯である「草津温泉」だろう。左手前からカーブする幅広の道は、前方に見えている「草津温泉」の店前へとつづいている。右手遠方の煙突は、おそらく建って間もないなんらかの工場のものと思われる。煙突(右)の手前下あたりには、周辺の農家で収穫された下落合野菜Click!を集積する、大正期の市場があった。

 画面の中央を左右に横切る、あたかも手前のカーブの連続した道のように描かれているのが、中ノ道よりも幅の狭い南へと入り込んでいく小路。青果市場は、この南へ入りこむ道の左手にあったので、正面の畑地に藁束が積み上げられた右上あたりに見えるのが、市場の建物なのかもしれない。また、右端に見える木立の連続は、まだ客車運行を始めてなかった西武電気鉄道の、線路沿いに植えられた並木だと思われる。1936年(昭和11)に撮影された空中写真を見ると、さらに工場が増えたとみえて、建設された煙突からの煙がかなり見て取れる。
 ところが、このクニャっと曲がったカーブの道は、近くの中井駅が開業するとともにできるだけ直線化が試みられたものか、空中写真でも地図でもカーブが浅くなっているのがわかる。1926年(大正15)当時の佐伯の絵や、当時の地図類を参照(記事末)すると、北側の斜面を削りカーブをゆるやかにして、寺斉橋筋の道を北へと伸ばしているのがわかる。佐伯は、その掘削工事の最中にこの『下落合風景』を描いた可能性があり、描画位置が高いのは積まれた土砂の上にイーゼルを据えていた可能性がある。(ものたがひさんのコメント参照) だから、現在の道筋から撮影しても、絵との画角が合わなくなってしまう。
 
 この絵のすぐ背後、葛ヶ谷方面へとつづく中ノ道にも、南へと入る小路がある。その道は、西武電気鉄道の踏み切りを越えて、すぐに妙正寺川にかかる寺斉橋へとさしかかる。佐伯がこの作品を描いたときには、まだ存在しなかったけれど、ほどなく踏み切りのところに中井駅Click!が建設されている。表現をいま風にすると、この作品の描画ポイントは中井駅を出て左折(北折)し、突き当たったT字路を右折してすぐの道端あたりだ。佐伯は、この寺斉橋筋の踏み切り北側にある、小さなY字路の情景Click!も『下落合風景』として描いている。
 
 右に見える細長い煙突からは、黒い煙が吐き出されている。左の「草津温泉」とみられる煙突からは、木材を燃やしているのか白煙が立ちのぼっている。大正から昭和初期にかけ、急速に住宅や工場、商店などが建ち並びはじめた妙正寺川沿いの一帯なので、「草津温泉」の利用客はうなぎのぼりに増えていったのかもしれない。
 では、この『下落合風景』を空中写真の描画ポイントClick!へと追加しよう。

■写真上は、佐伯祐三『下落合風景』(1926年・大正15)。は、現在の描画ポイント。見通しがきかないので、当時の風情はほとんど感じられないが、道の形状にはほんのりと面影が残る。
●地図:1926年(大正15)に作成された「下落合事情詳細図」。中ノ道沿いには「草津温泉」の名称と、南へ入り込んだ道には「市場」の文字が見える。
■写真中は1936年(昭和11)、は1947年(昭和22)の空中写真。
■写真下は、旧「草津温泉」の後継銭湯だろうか、ほぼ同じ位置に建っている「ゆ~ザ中井」。は、絵を横切るように描かれた南へ入りこむ青物市場への小路で、正面には西武新宿線が横切る。同一場所とは、まったく思えない住宅街となっている。  


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ものたがひ

成程!温泉と工場の煙突だったのですね。説得力バッチリありです。
北風が吹いて、屋根や原が白く見え、残雪がある様でもあります(カラーで確認したいですね)。寒中、絵を描き、佐伯も帰りに草津温泉に入ったでしょうか。
ほんとに、かなり俯瞰していますが、何に乗っていたのでしょう。クニャは、1921年の地形図までは、バッケのトドメの位置に、等高線に準じて出来ている様に見えます。1929年の地形図では整備されたゆったりしたアールの道に変わっています。この絵では、道の右手のアールはキツイのに、左手は緩く、クニャのアールを緩くする工事をしている所の様です。だから、佐伯は、左手のバッケの端の土を削った残土の上に乗っていた!?折しも、町制になって道路整備が進むころです。
また、1925年の「東京府北豊島郡長崎村豊多摩郡落合町」の図(豊島区地域地図第1集)の、1921番地と1922番地の境の線が、ちょうど「畑地の中の近道」にあたるのでは、と思いました。
私が?なのは、右手遠方の連続する木立は煙突(工場)より北にあり、線路沿いとは言えないのではないか、という事です。実際の画角は事情明細図の破線より狭く、南下がりの地形でもあり、線路や付随する構造物のギリギリ見えない様に、画面を設定した気がします。この辺で、新宿線が周囲より高いか低いか等、知らないので推測ですが。
もう一つは、事情明細図の六天坂のキャプションの位置。六天坂を示す黒線は、六の字の所ではなく坂の方。そして、1947年の写真の草津温泉跡地の位置が、それに影響されてズレています。草津温泉跡地は、六天坂と中ノ道が出合う所より西になるので、今のピンクの矢印を30度位、左に振った所のものでは?と思っています。
by ものたがひ (2006-05-25 18:38) 

ChinchikoPapa

あれ、なにかがおかしいな・・・。まずは、ご指摘ありがとうございます。
林立する木立の向こう側、つまり南側に建物が集まっている場所が「事情明細図」にも描かれていて、線路向こうの妙正寺川沿いに建っている家の屋根や煙突が見えているのだろう・・・と、わたしは解釈しているのですが、それはとりあえず置いておいて・・・。
おかしいのは、「事情明細図」と1947年の空中写真の道筋とが一致しないことです。寺斉橋へと抜ける道から数えると、市場のある道が1本目、途中から東へと折れるT字路がある道が2本目、そして草津温泉の手前にある3本目・・・が、空中写真にはほとんどないに等しく見えません。3本目の向こう側に草津温泉があった・・・という意識で、わたしは機械的に1947年の「草津温泉」キャプションを挿入してしまったのが失敗なのですが、ものたがひさんご指摘の通り、六天坂より西に草津温泉がなければなりません。(事実、他のどの落合地図でも西に煙突マークがあります) でも、「事情明細図」には、空中写真に見える六天坂下の斜め右下(南東)へと入っていく道が、まったく描かれていません。これは、草津温泉の右手の敷地沿いに、その後、道が拓かれたものでしょうか?
この3本目の誤解は、写真のキャプションにも現れていて、「ゆ~ザ中井」は道1本分移動しているのではなく、もともと「草津温泉」のあった位置に建てられている・・・ということになりそうです。
それから、もう1点。事情明細図に挿入した「六天坂」のキャプションですが、六天坂の位置を間違えたのではなく、右端ギリギリまで文字を寄せたかったのは山々なのですけれど、わたしの使用している画像編集ソフトで文字を挿入しますと、大きさにもよりますが「六天坂」(11ポイント)の場合、上下3~4mm、左右4~5mmほどのスペースをとられてしまいます。つまり、文字の端を完全に画像(地図)の右端へ合わせると、4~5mmの白いスペースが右へ飛び出してしまう・・・ということになるわけです。もっとも、もう少し大きく地図を切り取ればよかったと言われれば元も子もないのですが。(^^; ということで、地図をイチから作成しなおすのはお許しいただけないでしょうか?
写真および下の注釈は、時間ができたときに修正しておきます。
by ChinchikoPapa (2006-05-25 22:02) 

ものたがひ

1947年の写真の矢印が良くなれば、六天坂は大丈夫です^^;;。(念のため、1936年の写真の「草津温泉」は、あくまで「排煙」であって、温泉の位置ではないですよね?ちょっと煙が飛ばされて…)
なにかがおかしい件、理解するまで私も暫しかかりました。それは後述するとして、「右手に畑地(空地)が広く残っているので、このスペースを利用して道の鈍角化がなされたのだろう」との事、1947年の写真で良く分かる(という事自体、変だったのですが)草津温泉と富士ヤの間の上向きのカーブを両側に合わせて下向きの滑らかなものにした…昨日はそう勝手に思い込んでいました。畑地に張り出していくのは、「残土に乗る」佐伯の所で土を削るのとは逆だなあ、とは思いましたが、なにか佐伯の方を局所的な事とみなして済ませていました。
ところが、ふと、1921年と1929年の地形図を、400%の拡大コピーをして等高線で重ねてみたら、なんと、どのような工事をしたのかが分かったのです。1929年の浅いカーブの道に、1921年には瘤でもくっ付いた様なクニャの出っ張りが、あるのです。明らかに、ここを取り去り浅いカーブの道に直していると思います。昨日の私の「また、1925年の『東京府北豊島郡長崎村豊多摩郡落合町』の図(豊島区地域地図第1集)の、1921番地と1922番地の境の線が、ちょうど『畑地の中の近道』にあたるのでは、と思いました。」も間違いです。この1921・1922番地こそクニャの道の北側にあたる、瘤の部分(の東半分)です。この地図では、その更に北に、滑らかなアールを描く道があります。しかし、実際には1926年にこの道は存在せず、佐伯の絵にあるように、少しずつ山側を削っては、道をずらしていったのではないでしょうか!大量の土が本当に、南の低い土地に移されたことでしょう。
この事をご了解いただけるとすると、まず、今の航空写真上の描画ポイントは、少し東南に下げる必要があります。
次は、なにかがおかしい件です。事情明細図は、画角を考えようとする時、「名前」の無い畑地のスペースが相対的に狭く、私には分かりづらいので、位置関係がデフォルメされていない他の写真や地図に置き換えて、考えています。そういった図で、今提案した描画ポイントと市場の東南隅位を結び延長すると、西武電気鉄道の南、妙正寺川の北には、僅かなスペースしか出来ません。何かあっても、やや低めの土地になると思うし、市場の森(?)に隠れてしまうと考えました。工場の煙突は、事情明細図でいえば、市場の東の正方形のようなスペースにあるのではないかと思います。「連続する木立」は、正方形の上の辺に沿ってある感じでしょうか。だから、北から、木立・工場・線路、となると思うのです。
「草津温泉の手前にある3本目」ほんとに糸のようです。市場のある1本目も結構細いと思いますが。これらが、実際に細いのか、細く写っているだけなのか、不思議です。また、中ノ道の南は、この頃急に開発が始まり、道が作られていく所だったと感じています。
by ものたがひ (2006-05-26 12:17) 

ChinchikoPapa

とりあえず、写真を入れ替えましたけれど、確かに矢印の位置はもう少し南東になりますね。ただ、いまは道が存在しません(というか建物の中です/笑)ので、現状たどれるもっとも近い位置からの方角として、このままにさせてください。
論より証拠、ちょっと面白いことをしてみました。記事末に、わたしの会社に置いてあった1923年(大正12)の地形図(佐伯が歩く2年前)と、1930年(昭和5)の地形図を掲載してみました。そして、それを透過的に重ねるとどうなるか・・・。このあたりの道路整備の様子が、手に取るようにわかりますね。寺斉橋は動いてませんが、他の道路は大幅に筋道が修正され、クニャのカーブはこうして消されたのだ・・・というのがわかります。

> 西武電気鉄道の南、妙正寺川の北には、僅かなスペースしか出来ま
> せん。何かあっても、やや低めの土地になると思うし、市場の森(?)に
> 隠れてしまうと考えました。

いや、これはわたしは線路だろうと考えます。実際に中ノ道から南へ入る道を歩いてみますと、すぐに踏み切りか線路に突き当たります。しかも、クニャが消されてしまった現状の、中ノ道から中井駅の踏み切りへいたる距離よりも、市場の道のほうがより短いですので(歩かれると距離感がつかめると思うのですが)、佐伯が描いているこの距離がちょうどよく、まさに正しく思えます。
あと、線路の向こう側で妙正寺川の手前の狭隘地を想定されていますが、家々は川の手前、煙突は川の対岸という可能性もありそうです。当時の妙正寺川は、いまと違って非常に川幅が狭いです。
by ChinchikoPapa (2006-05-26 18:10) 

ものたがひ

クニャの透過写真、いいですね!このクニャ問題、本文に反映させないのですか?
>1926年(大正15)当時の佐伯の絵や、同年の「下落合事情明細図」から推察すると、右手に畑地(空地)が広く残っているので、このスペースを利用して道の鈍角化がなされたのだろう。
は、ちょっと違ってきてしまいました。
木立問題のポイントも、漸く分かってきました。原の遠くに居る黒い人(?)より右手の方の樹々が、西武電気鉄道線路の北側に沿った並木(があったのですね?)らしく見えてきました(^^。私は、作図中の緑の丸の「連続する木立」の事を考えていて、右手の樹々とは違う、右の煙突の左下から、さっきの人の方へやや斜めに並んだ樹列だけと捉えていました(作図中の両脇の家との関係で、そう見えたのでしょう)。この「連続」は、線路と平行の感じがあり、市場の東の正方形のようなスペースの上辺が、距離感から言っても適当だったのです。右手にある樹々は「市場の森(と藁束?)」だから作図されていないのかと思いました。重要な「右端に見える木立の連続」を図に入れるなら、一番右の家々より、もっと右になるのではないでしょうか。家の方が並木より手前で、工場の煙突も、市場のあたりから線路に平行に引いた線上のどこかに見えます。そうでなかったら、凄く遠くになり、もっと小さくなる気がします。…現場感覚を知らないと、ちょっと弱気ですが。
by ものたがひ (2006-05-26 21:20) 

ChinchikoPapa

写真に気を取られて、本文をいじるのを忘れてました。(笑) 先ほど修正しておきました。
それから図版の件、おっしゃる通りなのですが、煙突の位置もほんとうはもっと向こうにあるはずで、間近の建造物はともかく、遠方の建物や見えているモノはこれまでの図版もそうですが、距離感をいっさい無視しています。実際の比率や距離感で正確に図版を起こしてしまいますと、とんでもなく大きな図版になってしまいます。ご承知かもしれませんが、当ブログには画像登録の総容量に限界があります。だから、少しでもその限界値に達するのを先へ延ばすためには(換言しますとブログの寿命を1日でも長く延ばすためには)、できるだけ掲載する画像の容量を小さくしなければなりません。
たとえば写真画像は、できるだけ色数を減らして圧縮し軽くしてから登録したり、図版はできるだけ小さめに、この場合は描く対象を中央に集めて、作品の絵とはバランスが崩れるのを承知で全体をコンパクトにまとめて、大きな容量の図版にならないようにしています。ご理解ください。
by ChinchikoPapa (2006-05-27 00:10) 

ものたがひ

図版の容量の問題と、距離圧縮の描き方、わかりました。
ただ、この図に関してでしたら、このサイズ内で、右上隅にもう少し横になった「連続する木立」を入れ、木立の中の左の方に煙突、下に小さい家(2軒あるのか私には分からないです。家や木立の前に何かがあります。事情明細図の市場の位置のあたりに何かが集積されており、その向うに家と樹々があると思ったら、おっしゃられていた事が皆すっきり分かりました)を入れるだけで(…gifの作り直しになって大変なのでしょうか…)、線路の存在が暗示され易い様に思います。
それから、大変なご負担を掛けている「浮雲ガード記念の画像容量オーバー」、そろそろサービス終了にして下さいませ。(汗、汗、汗…)
by ものたがひ (2006-05-27 21:07) 

ChinchikoPapa

画像は、gif形式ではなくjpg形式で登録しています。gif形式ですと、容量がかえって重くなり、また画像のエッジがスムーズに表示されないケースが多いのです。「浮雲ガード」の件、「出血大サービス」なんて書きましたけれど(笑)、実はモノクロ写真の場合は写真の大きさに比べて、画像容量はたいしたことはありません。このページの白スペースばかりのたいしたことがないように見える図版ですが、これだけで「浮雲ガードの」ほぼ40~50%の容量があります。つまり、モノクロのほかにカラーを1色でも使えば容量は急激にアップします。
わたしは、Officeのオートシェイプ機能を使って図版を作成していますが、画像作成専用ソフトではありませんので、思うように図版が作れません。たとえば、任意の位置へあるかたちを配置していく・・・という場合、画像ワク同士が干渉し合ってか、微妙な配置ができません。つまり、言い方を変えますと、ヘタをすると記事を書くよりも図版づくりに手間と時間がかかって、なかなか思うような図版になってくれないのですね。たとえば、このページの図版の場合、屋根の線がなぜ中央に合わせてなくて曲がり、なおかつ途中で途切れてしまっているのか?・・・とお思いでしょうが、なぜそれがキッチリとできないのか、わたしもMicrosoft社に訊きたいくらいです。またたとえば、草津温泉の煙突の手前に見えてる電柱、もう少し中央の家へ寄せて配置すれば、より絵の様子に近づいていいのに・・・、わたしもまったくそう思いますが、これを次の右寄せにすると家の線とくっついてしまいます。これも、回転機能を利用した図形の隣りに配置した図形が、なぜ通常以上に調整できなくなってしまうのか、Microsoft社に訊いてみたいものです。
できあがった画像を、そのままPrintScreenでコピーをすると、縮小/拡大したときに線も文字も汚くなってしまいますので、一度PDFファイル形式に変換して、表示のパーセンテージを変えて実際の表示に近い大きさにし、画像を切り取ってから画像編集ソフトでファイル形式(jpg)とサイズを決めて、最終的にフィックスします。つまり、こんな他愛ない図版を作るのに、おそらくわたしがひとつの記事を書き上げる時間の倍近くを消費してしまっているのが、お粗末なわたしの制作体制の実情なのです。
もう一度、1時間近くの時間をこの図版作りにかける余裕も気力も、わたしには残念ながらありません。
by ChinchikoPapa (2006-05-28 00:55) 

ものたがひ

Officeの勝手の悪さ、拝察申し上げます。でも、妙な屋根などは、このような理由で生まれていたとは知りませんでしたが、もうC.P.スタイルとしてお馴染みで、それなりに気に入っているのですけれど(笑)。
「草津温泉」では、中ノ道から市場へ続く道だけがあるように見える画面に惑わされず(佐伯に後日の謎解きを仕掛ける意図があったようにすら思えます)、描画ポイントを特定したC.P.さまの手腕に唸ってしまいます。ご説明いただけば、全くそのとおりで、ディティールまで納得するのに…ちょっと、くやしいなあ。
どうぞ、C.P.さまは、そういったクリエイティヴな方向に、力を注いで下さい。私の頁(そんなものが、あったんですね)に修正案を載せてみました。こんな風に思っていたのですが、どうでしょう。私はフォトショップを自己流に使っており、位置出しは自在ですが、どうすれば軽くかつ綺麗なデータになるのか知りません。

ところで、昨日、空中写真で糸の様に写って見える道について、分かった気がしました。地下鉄の三越前で乗換えようとしていたら、地下道のA2番出口の傍に、巨大な巨大な航空写真のパネルがあったのです。1944年と2006年の日本橋周辺のものです。両方とも、もの凄く精度が良いです。
その空中写真に、暗い建物と建物の間の、暗く見える道が写っていました。それらの階調の差は僅かで、もっと荒い画質になったら、すぐに見分けがつかなくなるでしょう。しかし、そこには又、道路の端の簡単な縁石(?)にあたった光が、走っていたのです。これは、白い糸のように光り、単純な階調になっても残ると思うのです。…道が、周囲と異なる明度に見えない時、光る縁石状のものだけが判別できるのだと思いました。
by ものたがひ (2006-05-28 11:29) 

ChinchikoPapa

ものたがひさん、さっそく図版にTBさせていただきました。わたしの絵からの感触ですと、その表現からもう少し木立が鋭角ではないかな・・・と思うのですが(西武電気鉄道の角度も絡め)、ものたがひさんの解釈もありえますね。ありがとうございました。
それから、日本橋の空中写真、道筋の光り方について興味深いご観察ですね。空中写真の中で、屋根にも同じようなテーマを感じることがあります。洋館が白っぽく、和館がグレーあるいは黒っぽく写っている・・・と単純に考えていた時期もありましたが、どうもそうではないようです。和館の瓦屋根でも、光の当たり方や角度による反射の“膨らみ”によって、まるで洋館のように白っぽく見えてしまう場合もありえそうです。道筋、家の形ともに、当時のモノクロ空中写真ではちょっと注意が必要なのを改めて感じますね。
それから(!)、つい今しがたまで「杏奴」にいたのですが、ビックリ仰天し、思わず興奮してしまいました。たくさんの資料をお送りくださり、ほんとうにほんとうにありがとうございました。
まず、佐伯祐三の自筆コピー(制作メモ)、思わずのけぞってしまいました。これはどう見ても「尾」ではなく「た」です。実はしばらく前から、添付してくださった『佐伯祐三のパリ』カバーにある、パリの絵ハガキ「た」がわたしも気になってまして、確かに漢字つづきでグシャっと書かれたら「尾」にも見えるのかなぁ・・・などと、空想していたのでした。これはものたがひさんがおっしゃるように、ほとんど間違いなく「森たさん(森田さん)」でしょう。森田さんは大正15年現在、「事情明細図」より2軒発見していますけれど、その一方であることは間違いないと思います。それから、なんで「・・・のトナリ」なんてもってまわった言い方をしたのかも含めて、いずれ書いてみたいと思います。
それから、目白文化村と荒玉水道の資料も感謝感激です。特に目白文化村の第三文化村の地割図(初見)は、地元の方の証言と見事に食い違っていますね。(笑) 尾根筋ではなく、これでは谷底を地割して分譲したことになってしまいます。でも、1936年(昭和11)現在の空中写真でも、不動谷の谷底は草原(おそらく小流れをともなう湿地帯)で、造成されていないように見えてしまいます。ちょっと不思議ですね。住宅総合研究財団が作成した地割図が、道1本東へズレて間違えた・・・なんて可能性はあるのでしょうか。
水道塔の建設中の写真(昭和6年)も、わたしは未見のものでした。特にいまはなき大谷口の水道塔内部の様子がわかって、とっても興味深いです。双子の野方水道塔の内部には、このような内部にいまでも非常用の水が蓄えられているんでしょうね。さっそく「抄誌」を読ませていただきます。
それから、妙正寺川の描画ポイントの件、新たな積雪の風景とともに悩ましいところです。つまり、少し前に「佐伯祐三はバッケを省略して描いてないか?」・・・というテーマにつながってきます。ものたがひさんの描画ポイントおよび画角ですと、左手4分の1ほどにバッケが描かれていなければなりません。特に、中井御霊神社とは別の、東側の社マーク(おそらく稲荷社だと思うのですが、個人宅の庭に収容されたのかいまだ発見できません)、およびO邸はすでに崖上の尾根道にあたります。このあたりの崖線は、半絶壁に近いような傾斜をしていて、ものたがひさんの黄色い画角線(北側)を入れてしまうと、絵の左手へ覆い被さるような崖が出現していないと整合性がとれなくなってしまうのです。わたしが、妙正寺川土手の描画ポイントを少し北側へ設定して、画角をやや狭くしたのはそのせいでした。これは、積雪の同風景についても左手に崖線が見えないことから、まったく同様の課題が浮上してきますね。
ますます謎が深まる、佐伯祐三の『下落合風景』、当分楽しめそうです。(笑) ほんとうに、ありがとうございました。今度、「杏奴」でじっくり『下落合風景』について、お話したいものです。
余談ですが、きょう「杏奴」で、昨日結婚式を挙げたばかりの女性(改めておめでとうございます!)が、面白いことを教えてくれました。佐伯アトリエの採光窓の下の壁面に、「Saiki」というサインがあるというのですね。当然、本人ではなく誰かが後世にイタズラ書きしたと思うのですが、「Sayeki」でも「Saeki」でもなく「Saiki」としたところ、下落合に移ってから第1回目の渡仏時ぐらいまでのサインを知っている誰かが書いたものでしょうか。わたしは気づかなかったのですが、ちょっと気になる情報でした。
by ChinchikoPapa (2006-05-28 20:05) 

ものたがひ

TB、ありがとうございます。
>もう少し木立が鋭角ではないかな
という点、手直ししてみました。この方が、黒煙の煙突の位置が多様に解釈出来る点でも、良いように思います。
第三文化村の地割図の谷側の道は、「出前地図」の「文化分譲地入口」と整合性があります。私は、すぐに売れなかったとしても、ここは分譲地だったのでは、という感触をもちました。
『曇日』についての
>左手4分の1ほどにバッケが描かれていなければなりません。このあたりの崖線は、半絶壁に近いような傾斜をしていて、ものたがひさんの黄色い画角線(北側)を入れてしまうと、絵の左手へ覆い被さるような崖が出現していないと整合性がとれなくなってしまうのです
とのこと、もう少し詳しく、伺いたいです。私が等高線と睨めっこしながら想定したバッケのラインは、右手の遠くの家のあたりから始まり、その雲のような所を通ります。手前にある「中井御霊神社とは別の、東側の社マーク」は、左手の方でこの遠方のラインの中に入ってしまうと思ったのですが、もっと高いでしょうか?
そして、興味深いと思ったのは、もしもこれがバッケであった場合、曇って、いつもなら良く見えるバッケが、あたかも存在しないかの様に見える点です。またしても、謎解きを迫る画面が作られているように感じたのです。晴天の景色を描けば、多くの人が、すぐあそこだな、と気づくけれども、そうは行かないタイミングを選んでいる…。
『荒玉水道抄誌』は、落合と長崎が兄弟のような地域であった事を、よく示す資料です。生かして頂ければ幸いです。
by ものたがひ (2006-05-29 08:42) 

ChinchikoPapa

さっそく、図版の修正をありがとうございました。
ちょっと、現在の空中写真で、目白崖線のラインを入れたものを記事末にアップしてみました。ご参照ください。黄色い点線が崖線で、急な坂道とともにバッケが起立しています。もっとも、いまは宅地造成がかなり進んでいますので、当時に比べたらずいぶん土地が造成され、ならされてしまっているかもしれません。このバッケの手前が、ダラダラ坂となっています。
中井御霊神社およびもうひとつの鳥居マーク、そして「事情明細図」に登場するO邸も、すべて高い崖上に位置しています。つまり、佐伯祐三は赤い点線のような、やや狭い画角で描かない限り、切り立った目白崖線が左手に必ず入りこんでしまう・・・ということなんですよね。これは、積雪のあった同景でも、左手がやや広めに空いて描かれていますので、同様に発生するテーマです。
by ChinchikoPapa (2006-05-29 15:58) 

ものたがひ

崖線のライン入り写真のアップ、ありがとうございます。私は崖線は『曇日』の中に含まれていると考えています。別館G.M.作業室を立ち上げました(笑)。ご覧ください。

TBって、私がこちらで付けさせて頂くものなのでしょうか。仕組みが、よくわかっていなくて済みません。
by ものたがひ (2006-05-29 19:17) 

ChinchikoPapa

おおっ、なんだか本格的にアライアンス体制になってきました。(^o^
図版を拝見しました、ありがとうございます。
トラックバックは、付けたい相手のページ下にあるURL(このコメント欄の下にあります)を、ご自分のページの編集画面下の「トラックバック」欄へコピー&ペーストされますと、相手のところへTBできます。
つまり、双方でこれを設定すれば、どちらのブログ側からも当該ページへジャンプすることができて、実はこのようなテーマのアライアンスによる多角的な研究・検証にはもってこいの仕組みなのです。(笑)
さっそく、わたしのほうからTBしてみましたので、ものたがひさんも設定してみてください。きっと、わたしのページ下に「トラックバック(1)」と出るはずです。
by ChinchikoPapa (2006-05-29 20:05) 

ChinchikoPapa

ものたがひさん、しっかりTBできています。ありがとうございました。
これで、ものたがひさんの解釈とともに貴重な資料類を掲載いただきますと、わたしのブログからいつでもジャンプして参照できることになります。しかも、ものたがひさんもわたしもSo-netブログですので、お互いがコメントし合えば、お互いのブログにそのコメントした記事タイトルが、左側に逐一表示されるという、願ってもない環境となりました。(^^
by ChinchikoPapa (2006-05-29 23:33) 

ものたがひ

ご指導ありがとうございます^^。最初に入れた画像は大きすぎて切れていたので、最適サイズを模索中です。殆ど見た事の無かった設定の頁を眺めましたが、既成のスキンから選ぶというのは苦手でした。
コメントも、ありがとうございます。尾根は、どれも似た感じなのでしょうか、一つずつ感じが違うのでしょうか。写真のup、待っています。
by ものたがひ (2006-05-30 00:23) 

ChinchikoPapa

さっそく、2枚のバッケ写真をアップしました。
まず、左側が中井のバッケを上から見下ろした写真です。だらだらとした下り坂の果てに、急激に落ちこむバッケ状の地形です。坂道では間に合わず、階段状となっています。下に中ノ道があるのですがまったく見えず、背の高いブルーの街路灯も、崖上からは見おろすかたちになります。この風景は、「曇天」の地点よりは少し中井駅寄りですが、中井御霊神社のあたりでも、ほぼ同じ地形となります。わたしが佐伯の画角と崖線にこだわるのは、ものたがひさんの画角ですと切り立った崖が「見えないはずがない」・・・ということなんです。そしてもうひとつ、ものたがひさんがご覧になっている国が作成した大正期の地形図に描かれた等高線の間隔が、明らかに誤っているんじゃないか(わたしの手持ちの地図もですが)・・・ということです。
右は、たまたまマンションが壊されて露出した、めったに見ることができないバッケの貴重な姿です。場所は下落合の御留山付近ですが、中井のバッケとほぼ同じ標高か、あるいは中井のほうが少し高いかもしれません。そして、中井のバッケよりも、これでも傾斜がやや穏やかです。(^^; 手前のフェンスで隠れてしまっていますが、この急角度で下まで一気に落ちこみます。大正期の旧・下落合4丁目(中井駅の西側)は、宅地造成がほとんど進んでいなかったでしょうから、バッケがそのまま露出した状態のところが多かったんじゃないかと思います。
by ChinchikoPapa (2006-05-30 12:46) 

ものたがひ

写真のup、ありがとうございます。スキーしてたら、泣いちゃいますね!
ところで、今にも泣き出しそうな『曇日』の空に、バッケはあるけれども、無いのですってば。どうぞ、別館にお越し下さい。
by ものたがひ (2006-05-30 22:33) 

ChinchikoPapa

林芙美子は、四ノ坂のバッケでスキーをしていたそうですが、果たして転んで泣いたでしょうか。(^^;
いま、コメントを書かせていただきました。もし機会がありましたら、地図の等高線からちょっと離れられて、現場を散策いただければと思います。画角に中井御霊神社の境内や参道までが含まれ、それが霧で見えない・・・との仮説ですが、左手に目を向けると、見上げるようにせり上がった崖淵すぐのところにある同社境内の森は、奥の家々がはっきり見えていることを考え合わせますと、わたしの実地の感覚では、霧で見えないことなどまずありえないことだ・・・と考えます。
仮に、ものたがひさんの画角が正しいと仮定すれば、佐伯はバッケを描いていない・・・としたほうが、まだスッキリすると思うのです。
by ChinchikoPapa (2006-05-31 00:57) 

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