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「時代」の表現はむずかしい。 [気になるエトセトラ]

 「東京時代は、浅草に日本初のエレベーターが設置されたオフィスビル凌雲閣(十二階)が完成して、銀座には地下鉄が開通し、東京オリンピックと同時に新幹線が東京~大阪間を走り、各家庭には電話やコンピュータが普及した」・・・というような文章を読むと、きっと多くの方が奇異に感じられるだろう。明治も大正も昭和も、そして現代もみんなゴッチャでいっしょくたじゃないか・・・と思ってしまう。ところが、「江戸時代は~」と語られるとき、上のような文章がかなり多いことに気づく。
 明治時代から、たかだか140年ほどの時代経過にしかすぎない「東京時代」だが、江戸時代はその倍の長さがあったのだ。だから、同じ「江戸時代」とくくられてはいても、初期の寛永時代と幕末に近い天保時代とでは、社会のしくみや技術、人々の暮らしや風俗などには、大きな差異がある。鎖国していたから、なんとなく江戸時代はのっぺりした1枚岩のような停滞期と捉えられがちだが、実はそれがちょっとした錯覚を生むことになる。
 たとえば、「江戸時代には、河川の汚濁防止のため、あるいは田畑の肥料用にするため、下肥は槽に蓄えられ、近郊農民たちに高値で売られるリサイクルシステムが確立していた」・・・という記述があったとする。流行りの“江戸本”などで、よく見かける記述だ。ところが、下肥に高価な値打ちが出てきて、街中にも近郊農家が経営する公衆トイレがあちこちに設置され(特に物見遊山ポイントには多かった)、下肥を売ることで裏店の大家や差配のふところが潤うようになったのは、江戸近郊の野菜栽培が盛んになった江戸中期~後期のことだ。
 つまり、大江戸が汲み取り式トイレになったのは江戸時代も半ば以降であって、それまで街中の商家や屋敷などでは水洗式トイレが多かった。トイレの下に水流の樋を埋め通し、ポッチャンと落としたら下水管としてそのまま川へ流していたのだ。浄化槽が存在しない当時では、水洗式トイレ(もちろんこんな名称はない)は不衛生きわまりないということで幕府が禁止し、水洗式は汲み取り式へと造り変えられていく。江戸時代の初期には、上水道が完備していたばかりでなく、不完全なかたちとはいえ下水道も存在していた。
 また、たとえば杉浦日向子・著の『お江戸風流さんぽ道』に、以下のような記述がある。
  
 川開きの服装は、おおむね浴衣と思われるかもしれませんが、それは違います。江戸では、浴衣は基本的に湯上がりのものです。玄関先で涼むときや、路地で将棋をさすときなどプライベートなシーンでのバスローブに近いものと考えてください。(同書「川遊び」より)
  
 この記述が、歌舞伎『花館愛護桜(はなやかた・あいござくら)』(助六由縁江戸桜)が二代目・団十郎によって初演(1713年)されたとされる、元禄時代の残り香ただよう享保の直前あたり、江戸中期の記述だったら正確な表現かもしれない。ちょうど「助六」に登場する、湯上りに濡れ手ぬぐいの“くあんぺら門兵衛”がひっかけている、帯もない前あきのペラペラした木綿の単衣だ。

 でも、寛政期や天保期の幕政改革を通じて、豪奢な着物や贅沢な生地が禁止され、木綿地の着物が強く奨励されるにつれ、浴衣は湯上りの単なるバスローブから、帯をつけたちょっとした木綿地の夏季外出着へと再デザインされ、仕立てなおされていく。江戸藍染めによる浴衣文化の原型は、江戸後期の幕府による庶民生活の締めつけから生まれていった。
 「明治期に入り、文明開化とともに版木印刷に代わる活字印刷技術がもたらされた」・・・という記述も、明らかに誤りだ。江戸の初期には、活字印刷が盛んに行われ、精巧な金属活字(銅活字が多かったようだ)や木製活字が多用されている。それが普及せず、いつの間にか忘れ去られ、庶民の間では版木印刷が好まれて一般化しただけだ。

 いや、別に江戸期に限らず、たとえば「昭和時代の日本は経済成長いちじるしく、モノがとても豊かになり・・・」といった記述をすれば、悲惨な第二次世界大戦があったじゃないか、そんな時代じゃなかったよ・・・という声が、すぐにも聞こえてくる。「時代」の特長を一般化・抽象化して表現するのは、ついこの間のことであってもとても難しい。わたしもついやりがちな、「○○時代は××だった」という表現は、より正確に時期と背景を区切って、厳密かつ多面的に表現するほうが望ましいのだろう。
 ますますブログの文章が長くなりそうだが、ちょっと気をつけたい、でもかなり重要なテーマのひとつだ。自戒をこめて・・・。

■写真上:大江戸(江戸後期)いちばんの繁華街、両国橋の守り神で西詰めに現存する川上稲荷。
■写真中:左から六代目・坂東彦三郎の朝顔仙平、十五代目・市村羽左衛門の花川戸助六、初代・中村吉右衛門のくあんぺら門兵衛。
■写真下:家康・吉宗・慶喜の3人が奉られた、上野東照宮にある総金箔の唐門を、権現本殿側から眺める。前方の樹木からのぞくのは、寛永寺の五重塔。


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ChinchikoPapa

こちらにも、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2010-01-04 13:22) 

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