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80年前の開かずの踏み切り。 [気になる下落合]

 

 すー@上落合さんのご教示で、佐伯祐三のもうひとつの作品「踏み切り」の描画ポイントが判明した。いつもの『下落合風景』シリーズではないけれど、間違いなくその延長線上に描かれた作品のひとつだ。わたしは、いくつかの線路が重なっているので、佐伯が当時スケッチに通った田端駅近辺だとてっきり思い込んだClick!のだけれど、先入観は絶対に禁物。すー@上落合さんの観察眼は、わたしなどよりもよほど鋭かったのだ。しかも、わたしは大正末のこの踏み切りの写真を、すでに佐伯の「ガード」Click!でわざわざ掲載しているのに、ぜんぜん気がつかないボケぶりだった。
 この踏み切りは、昨年に廃止されて、現在は線路をわたる歩道・自転車橋が完成している。それまでは、いくら待っても遮断機が上がらない、悪名高い“開かずの踏み切り”だった。それもそのはず、この踏み切りの線路は数分おきに電車が通る山手線であり、埼京線や湘南新宿ラインが併走するようになってから、さらに踏み切りの開く時間は激減した。もう、待つだけムダなので、目白駅前の目白橋や池袋駅手前のガード下を迂回する人たちもかなり多かった。でも、佐伯が描いた1926年(大正15)当時の情景を見ると、拡幅前なのだろう現在よりも踏み切りの幅がいくらか狭く、とてものんびりしているように感じられる。
 踏み切りの番小屋の背後には、壁面に看板が掲げられた民家がポツンとひとつ見えてる。その右側を歩いている、日本髪に和服を着たうしろ姿の女性のように見える人物は、これから前方のガードをくぐろうとしているのだろうか? このガードの上、山手線よりも高い位置を走る路線が、ひとつ手前の上屋敷駅Click!から終点の池袋駅へとつづく、武蔵野鉄道線(現・西武池袋線)だ。(客車運行は1929年・昭和4からと、ものたがひさんにご教示いただいた) 人物が歩いているあたりから道はふたつに分かれ、左の山手線とほぼ平行の道を行くとやがて池袋駅東口へ、ガードをくぐると当時は字(あざな)で大字雑司ヶ谷字御堂杉と呼ばれた現在の南池袋1丁目、あるいは大字高田字大原と呼ばれたいまの目白2丁目へと抜けられた。
 
 1936年(昭和11)の空中写真を見ると、まさにこの「踏み切り」にピッタリな情景が眼下に見おろせる。佐伯祐三は、すー@上落合さんが指摘されるように、下落合の「ガード」を描いてから山手線沿いの道を北上したのだ。そして、高田町大字高田字金久保沢の「目白風景」Click!のポイントを見つけてさっそく描いた。そして、さらに目白通りを渡って三春堂を左手に見ながら、現在の“F.L.ライトの小路”を歩き、武蔵野鉄道線のガードをくぐったところで踏み切りを発見して、にわかに創作意欲が湧いたのだ。(ライトの小路のガードが当時からあったかどうかは不明)
 1944年(昭和19)の空中写真では、踏み切りの向こう側に見えていた民家が、丸ごとなくなっている。鉄道の近くに建っていたので、空襲を想定した防空の観点から「建物疎開」をさせられたのかもしれない。「建物疎開」というと、なんとなく建物をどこか安全な場所へ移築したように聞こえるけれど、単に火災の延焼を食い止めるために打(ぶ)ち壊しただけだ。下町でも多くの家々が、「建物疎開」という名の打ち壊しで解体され、多くの住民が家をなくして悲しい想いをしている。でも、雨のように降りそそいだ焼夷弾には、「建物疎開」などほとんど無意味だったのだ。
 
 佐伯祐三は、落合町下落合だと思って描いた風景が、実は高田町高田だったことに気づき「目白風景」と題したのかもしれないけれど、この作品「踏み切り」は、当初から下落合ではないことを知っていて描いたものだろう。あえて名づけるとすれば、「雑司ヶ谷風景」だろうか。この線路沿いの道に展開する光景に、佐伯は強く惹きつけられていたようだ。あともう少し北へと歩けば、すぐに自由学園や師範学校Click!へと出ることができるのだが、佐伯祐三は自由学園明日館を、はたして目にしたのだろうか?
 ということで、『下落合風景』シリーズの番外編「踏み切り」を、突貫工事の付け足しでこしらえた描画ポイント空中写真Click!に加えてみた。

■写真上は、佐伯祐三「踏切り」(1926年・大正15)。は、佐伯の描画ポイントから見た現在の様子。踏み切りは、すでに取り除かれて存在しない。
■写真中は、1936年(昭和11)の踏み切り。作品どおりの線路の角度や家屋の配置、あるいは道筋のかたちが見てとれる。は、1944年(昭和19)の同所上空。踏み切り番の小屋はあるようだが、民家の姿が丸ごと消えて空地になっている。
■写真下は、1947年(昭和22)の踏み切り。線路をはさんで東側が焼け野原だ。は、昭和初期の踏み切りの様子で、池袋方面から眺めたところ。
 


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ChinchikoPapa

「豊島区史地図編(下)」(豊島区史編纂委員会・1974年)に掲載されてます、1916年(大正5)と1921年(大正10)の地図を参照しますと、「ライトの小路」は武蔵野鉄道線の線路までつづいていますが、そこで突き当たっているのか、あるいはガード下をくぐり抜けているのかどうかまでは確認できませんね。ひょっとすると、複線化か最寄り駅の開業とともに、ガードも造られているのかもしれません。
それから、わたしは大正末~昭和初期の「下高田町明細図」「池袋事情明細図」「西巣鴨町東部事情明細図」の3枚は手元にあるのですが、上屋敷や雑司ヶ谷西谷戸大門原(西池袋)、巣鴨(代地)や雑司ヶ谷旭出(目白3~4丁目)の「事情明細図」のみありません。(存在しているのでしょうか?) もしどこかで手に入れられるかご存じでしたら、ものたがひさん、ご教示いただければ幸いです。
by ChinchikoPapa (2006-04-27 12:38) 

ChinchikoPapa

さて、そうなりますと、このガードはいつごろできたのでしょう。わたしが知っている、いちばん古いエピソードは、1955年(昭和30)に公開された林芙美子原作で成瀬巳喜男監督の『浮雲』のロケがここで行われた・・・ということで、戦後はすでにあったような感触です。あっ、そういえば高峰秀子と森雅之が、ライトの小路を散歩したんですよね。ふたりの顔が瞬時に浮かぶわたしは、もう爺さんでしょうか?(笑)
情報をありがとうございます。郷土資料館、今度のぞいてみます。、「下高田町明細図」「池袋事情明細図」(ともに大正15年作図)は、「豊島区史地図編(下)」に収録されています。わたしは、椎名町駅近くの古書店で探してもらって入手しました。
by ChinchikoPapa (2006-04-27 18:57) 

ChinchikoPapa

重ねて、ありがとうございます。値段もそこそこで手に入るようですね。土曜日に「ライトの小路」へ出かける用事がありますので、ついでに「浮雲ガード」(^_^を超えて資料館で入手したいと思います。
by ChinchikoPapa (2006-04-27 19:24) 

ChinchikoPapa

あっ、ほんとうだ! 写真を小さくするから、わたしも気づかなくなってしまうのです。(笑) ということで、べらぼうに写真を大きくしてみました。もう、浮雲ガード記念の画像容量オーバー出血特別サービスだてんだ、これでもか。(^^;
この写真は、昭和7年ごろに撮影されたものですから、そのころは間違いなく存在していたようですね。さて、佐伯祐三は浮雲ガードをくぐったか・・・?
by ChinchikoPapa (2006-04-27 21:54) 

ChinchikoPapa

追伸:つい遮断機のところをじっくり見てしまいました。1933年(昭和8)の『高田町史』口絵に掲載されている写真なのですが、ひょっとして少し前に撮られた写真だったりすると、もしかしてイーゼルを立ててる怪しいヲジサンが写ってないとも限りませんので。・・・いませんね。(笑)
by ChinchikoPapa (2006-04-27 22:02) 

ChinchikoPapa

ご丁寧にお調べいただき、ありがとうございます。お教えいただきました地図を、先週の土曜日、豊島区郷土資料館へ探しに行きましたら、1Fの受付で「祝日はお休みです」と、冷たく言われてしまいました。

> 私は、後者は実際に道があったのではなく、計画道路を書き込んでいる
> のではないかと思います。

実は、わたしもこの手の地図にさんざん騙された経験がありまして、大正末から昭和初期にかけて市販されていた地図の中には、計画だけの幹線道路やあるはずのない道筋までが描き込まれたものが存在します。
下落合界隈では、昭和初期の地図に山手通りと十三間通り(新目白通り)がすでに描かれている地図が存在し、幹線に限らず、どこまで描かれた道を信用していいのか混乱したことがあります。十三間通りは、さすがに東京オリンピックのあとにできた道路ですので迷いませんでしたけれど、環状6号線が昭和初期にどこまで工事が進んでいたものか、地図を見ただけだと「もう完成してるじゃないか」なんてことになってしまうんですね。
当時は、役人が机上で計画したら、もうその道路は数年後に造られたも同然・・・というような感覚があったんでしょう。この「予定」地図に騙されないためには、必ず複数の地図か空中写真を参照して、ウラ取り検証が欠かせないことを思い知りました。
by ChinchikoPapa (2006-05-03 00:15) 

ChinchikoPapa

きょう、豊島区郷土資料館へ出かけて、ものたがひさんに教えていただきました地図類を仕入れてきました。1926年(大正15)の事情明細図と1925年(大正14)の地図とで、ライトの小路の表現が異なる点、興味深いですね。確かに、事情明細図では原っぱないしは土手状になっていますけれど、地図のほうでは浮雲ガードができているように描かれています。わたしも、おそらく地図の方が先走って、事情明細図のほうがリアルタイム・・・というふうに感じますね。ただ、事情明細図も、短期間で作成されたものではないでしょうから、どのぐらいの制作リードタイムがあったかで、場合によっては現場と地図との乖離が生じてしまっている・・・とも解釈できます。
もし事情明細図が正しいとすると、佐伯祐三は上屋敷駅寄りの踏み切りを通って、大きく迂回をしないと浮雲ガードにはたどり着けないことになりますので、下落合を軸に歩いていた彼の行動パターンからしますと、ちょっとイレギュラーのような感触も生まれます。さて、佐伯はどうやって浮雲ガードへたどり着けたのか・・・?
「ミルク色の残影」も購入しました。昔の住宅街の中にあった、小規模な“東京牧場”の写真を見てしまいますと、「曇天」ないしは「洗濯物のある風景」が、確かに牛に見えてきますねえ。(笑)
by ChinchikoPapa (2006-05-08 01:24) 

ChinchikoPapa

そうなんですよね、佐伯祐三はおそらく、目白・下落合よりも池袋西口のほうがはるかに土地カンがあったんじゃないかと思えてきます。画学生時代には、池袋に住む画家や友人宅へ、ヒマさえあれば入り浸っていたような気配もありますから(人の議論をジッと聞き入るのが好きだったようですね)、むしろ留守にしがちな下落合よりも、ずっと馴染みがあったのかもしれません。
「道無き道を進む」気配、かなり濃厚ですね。『下落合風景』のいくつかの作品は、「これ、人んちの庭じゃないのかな?」と思える描画ポイントもあります。前回の「諏訪谷」も、すでに人家が建ってるのに侵入してたりして。(笑) 163cmとかなり小柄な、怪しい風体の男が庭先に入ってきて、なにやらゴソゴソ描きはじめたりしたら、住民としてはちょっとイヤですね。

> ライトの小路開通80年記念イベントが、もうすぐ開けますね!
> (これは豊島区の仕事?)

いえ、名付け親の三春堂さんのお仕事ではないかと。(><;☆\
by ChinchikoPapa (2006-05-08 18:09) 

dera

以前、踏切関係の話題でコメントさせて頂いたderaと申します。相変わらず熱心に研究されていて、まったく素晴らしい!の一言です。

さて、先日非常に興味深い話を読みました。小生、子供の頃から鉄道が大好きで、とりわけ西武線への興味が特に強いのですが、数年前の「鉄道ピクトリアル」という雑誌の西武鉄道特集に、新宿線開通時の記述を発見しました。
昭和2年に西武鉄道村山線として開通した当時、下落合駅と同時に、高田馬場(仮)駅の開設の記述があったのです。現在は急カーブで山手線をくぐっていますが、それよりもさらに急なカーブを切って、山手線をくぐらないで、山手線と平行するように仮駅が設けられたとありました。具体的な場所の記述はありませんでしたが、もしこれが本当ならば、一体どこにどうやってホームが作られたのか、大変気になるところです。
翌昭和3年には、山手線をくぐるガードの工事が完成したと見えて、現在の位置に高田馬場駅が作られたとありました。
ただ、開通当初の高田馬場~下落合あたりの駅開設については、1993年の同じ「鉄道ピクトリアル」西武鉄道特集に、「現在の氷川神社の前あたりに駅があった」との記述があり、これが下落合と高田馬場のどちらを指すのか、またどれが正しい情報なのか、ハッキリしません。氷川神社から急カーブで山手線に平行する線路があって、高田馬場(仮)駅が設けられていたとしても、その間隔はたかだか数百メートルですよね・・・。いまよりも電車が小さくて編成も短かったから、あり得ない話でもありませんが。
開業年月日で見ると、高田馬場も下落合も同じ日の開業になっている(と記憶しております)ので、高田馬場(仮)駅が存在した可能性も、無いことはないと言えますでしょうか。
いまは一時的に2冊とも手元にありませんので、出典や参考資料を調べることが出来ませんが、いずれ2冊が手元に戻りましたらまた調べてみます。
by dera (2006-05-24 09:51) 

ChinchikoPapa

> 昭和2年に西武鉄道村山線として開通した当時、下落合駅と同時に、
> 高田馬場(仮)駅の開設の記述があったのです。

1927年(昭和2)当時、西武電気鉄道は「志もをちあひ」が終点でした。乗客たちは、氷川明神前に設置された終点の下落合駅から、馬場下道→田島橋をわたって「やま乃て線」の高田馬場駅へと出ていたそうです。
でも、開設当初の西武線計画では、田島橋あたりに鉄橋を造り省線高田馬場駅(西側)へとすぐに線路を敷くつもりで、西武線高田馬場駅を計画していたのでしょうか? これは初耳です。(^^
http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2005-04-08
実は、その後の十三間通り(新目白通り)計画でも、当初は終点だった氷川明神前の下落合駅経由で、省線高田馬場駅へと抜けていた計画が、下落合駅が聖母坂下へと移動してしまったため、1929年(昭和4)当時と1935年(昭和10)当時とでは、道路筋の計画が大きく変更されています。
高田馬場駅の西側に駅を造るのを断念したのは、やはり用地買収がうまく進まなかったからかもしれませんね。昭和初期、田島橋の周辺には、すでにたくさんの住宅や工場が建っていたのが、大正末の地図でも確認できます。
by ChinchikoPapa (2006-05-24 15:54) 

目白の住民

この絵を大きく拡大してみたら以下の疑問が出てきました。
①踏切番の小屋の後ろの鉄塔は目白-池袋の踏切にはなかったのではないか。この鉄塔は田端などの大きな操車場によくあるものと思われる。池袋のような駅には設置されていなかったし、もしあったとしても貨物ヤードがあったのはびっくりガードから北側で、この場所にはない。
②踏切の渡り板の線路を見ると一番奥の線路の間隔が手前のものと比べると広く、その線路は左手にハの字状に広がっているように見える。目白-池袋の踏切では4本の線路が等間隔である。
③後ろの高架線のガードの左手の築堤は短く、その先にもうひとつガードか鉄橋があるように見える。
 以上のことから、この場所は大きな操車場の入口で、後ろに高架線がある場所だと考えました。都内でこのような場所はどこかと探したところ、管理人さんが当初推測された田端以外にはないと考えました。
以下の地図の東京食品ターミナルの斜め左下、開成高校の上あたりに思われます。
http://v3.mapion.co.jp/c/f?el=139/46/08.962&scl=10000&uc=1&grp=nikkei&nl=35/43/52.290
 現在は、ここを東北新幹線の高架が走っていますが、この時代は東北本線がこちら(この踏切)を複々線で通っていました。高架は1905年に開設された尾久操車場への出入庫線で、現在は東北本線もこちらを通っています。鉄塔の左の2階家は操車場の信号扱い所と考えます。踏切の先にはもう1本線路らしきものも見えガードを抜けているように見えます。現在もある田端から三河島を結ぶ常磐線の貨物連絡線です。なお、この踏切は現在は道路が付け替えられ廃止されたと考えます。
by 目白の住民 (2007-02-13 00:13) 

目白の住民

すいません。
照明塔という言葉が抜けていました。
「この鉄塔は田端などの大きな操車場によくある操車場を照らす照明塔と思われる。」です。
by 目白の住民 (2007-02-13 00:16) 

ChinchikoPapa

さて、わたしも当初はこの作品を田端としてしまったのですが、古くから踏切り近くにいらっしゃる方おひとり、豊島区の歴史に詳しい方おひとり、そして佐伯の作品に詳しい方おひとりの、計3名の方から「田端じゃない、池袋!」とほぼ同時期にご指摘を受けてしまい(笑)、すぐに考え直したしだいです。それ以来、いろいろ調べてみましたけれど、確かに池袋の山手線と武蔵野鉄道線が交差するあたりの情景ではないか・・・と判断し、この記事を書いたしだいです。
まず、目白の住民さんの①の疑問点。この記事末に掲載しました、昭和初期に撮影された山手線を横切る武蔵野鉄道線の高架ガードを撮影した写真。実は、写真が横長だったために左右を少しカットしています。そのカットした左側に、この作品に描かれた鉄塔そのものが、踏切り小屋の横に建っています。記事中の写真でも、左端にチラリと見えていますね。この鉄塔は照明塔ではなく、武蔵野鉄道をまたいで山手線脇につづいている、送電線の高圧鉄塔だと思います。記事末に大写しの写真を添付しましたのでご参照ください。
疑問点の②です。線路は左手にハの字状に広がっているように見える・・・と書かれていますが、作品に描かれた手前の線路と奧の線路は、左手へ並行につづいています。また、ハ字状に拡がる線路は存在しません。作品の当該部分を拡大しましたので、同様に記事末へ掲載いたしました。ご参照ください。
疑問点の③です。ガードの土手(擁壁)は、1947年(昭和22)に撮影されたやや鮮明な米軍画像を拡大しても、やはり短いように思います。もうひとつ奧にガードがあるように見えるのは、このガード上の武蔵野鉄道線の上りと下りの線路間に、山手線を横切る高架ガードと同様に“すき間”があり、そこから光が差し込んでいたからではないでしょうか。その線路間にあったと思われる“すき間”は、上記の空中写真でも黒く捉えられています。
読者のお三方がおっしゃるように、わたしもこの作品は田端付近の高架ガードあるいは踏切りではなく、いまでは池袋の踏切りだと考えています。
by ChinchikoPapa (2007-02-13 15:00) 

lot49snd

ご無沙汰しております。
この記事を拝見して、30年ほど前にここの赤煉瓦のガードの写真を撮っていたことを思い出しアルバムを捜していたのですが、やっと見つかりブログにアップしました。
よろしければご覧ください。
by lot49snd (2012-12-03 21:21) 

ChinchikoPapa

lot49sndさん、コメントをありがとうございます。
まさに、佐伯の描いたガードそのものの証拠写真ですね! 素晴らしいです。写真を拝見しますと、戦後もそのまま、ずっと変わらない風情をしていたことがよくわかります。このガードのレンガ積みも、山手線と同様にイギリス積みだったものでしょうか。
わざわざ、貴重な情報をありがとうございました。さっそく、TBさせていただきます。
by ChinchikoPapa (2012-12-03 23:42) 

ChinchikoPapa

先ほどから何度かTBを差し上げているのですが、うまく送れないようですね。明日、改めて試してみます。>lot49sndさん
by ChinchikoPapa (2012-12-03 23:52) 

lot49snd

失礼しました。トラックバックを公開しておきました。
写真を拡大してみるとレンガはイギリス積みです。


by lot49snd (2012-12-04 07:14) 

ChinchikoPapa

lot49sndさん、ごていねいにコメントをありがとうございます。
トラックバックは、管理機能付きだったのですね。すみません、何度か試みてしまいましたので、お手数をおかけしたのではないかと思います。
武蔵野鉄道は歴史が古いですので、レンガは山手線のガードと同様にイギリス積みだったのですね。これも貴重な記録だと思います。また、写真の引用をご許可いただき、ほんとうにありがとうございます。<(__)>
by ChinchikoPapa (2012-12-04 09:43) 

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