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“その現場”で起きる錯覚。 [気になる下落合]

 中村彝のアトリエを拝見していると、1916年(大正5)以降、つまり中村彝が下落合へ移り住んでから仕上げた作品の描画位置や、アトリエで撮られた写真に自然と興味が湧く。アトリエのいったいどこで描かれ、撮影されたものなのだろうか?
 アトリエの庭を描いた作品が、3枚残っている。もっと描いていたのかもしれないが、『保田龍門氏像』(1915年・大正4)のように1923年(大正12)の関東大震災の際、どこかで焼失してしまったのかもしれない。『目白の秋』という絵も描かれているが、わたしは目にしたことがない。作品の1枚は当時、芝生をこしらえた庭の南側、ちょうどツバキを植えたあたりからアトリエを描いたもの。大正5年8月20日に、下落合へ引っ越してきた直後に制作したものだろう。彝はよほどうれしかったのか、新築のアトリエの様子を、知人あての手紙でこう書いている。
  
 この間中から無暗に忙しかつたんでつい御無沙汰を致しました。去る二十日の日に愈、新築の画室に引き移りました。内部も外部も、非常に気持ちよく出来上がつてゐるので、住宅としても殆んど申分がない。画室の光線はさすが永い工夫の結果だけに非常にいゝ。去る二十八日の日から、例のモデルを使つて制作にとりかゝりました。四十号大のものに殆んど全身を描きましたが、どうやらかうやら纏りさうです。今月一杯もかゝつたら完成するでせうから、そしたら文展へ出す積りです。中原君も相変らず盛んにやつて居ります。    (大正5年9月1日「書簡・伊藤隆三郎あて」より)
  
 ちょうどこのころ、中村彝は物理学者である『田中館博士の肖像』を完成させ、中村清二や寺田寅彦などとも交流があった。中村清二は、田中館博士へ肖像画を贈るとき、藤島武二を介して彝を紹介してもらっている。
 
 『落合のアトリエ』(1916年・大正5)に描かれたアトリエの姿は、新築直後の様子をしている。このあと、中村彝の書簡によれば、いくらか部屋の仕切りを変える改装をしたり、関東大震災で崩れた壁面を修繕するついでに、小改築をしたりしている。銀行家・今村繁三や、親族などからの援助で建てられたアトリエだが、屋根はベルギーから取り寄せた高価な瓦で朱色をしており、壁面はこげ茶に塗られていた。
 
 2枚目の絵、『鳥籠のある庭の一隅』(1918年・大正7)は、庭から見ると応接室(居間)と台所のちょうど中間ぐらいに植えられた庭木に、鳥籠を吊るした光景だ。大正7年の当時、彝は小鳥を飼っていたようだが、なんの鳥だったかはわからない。当時、流行っていた黄色いカナリアだろうか? 描かれた小鳥は黄緑色をしているようだから、セキセイインコかもしれない。鳥籠が吊るされた庭の左正面には、簡素な枝折戸が見えている。方角的にいえば、南側を向いて描いている公算が高いが、ひょっとすると東側かもしれない。南向きなら背後に、東向きならば左手の画角外にアトリエがあるはずだ。
 
 同じく、1918年(大正7)に描かれた『雪の庭』。身体を気づかい、外へ出て描いたのではなく、応接室(居間)の窓あるいは扉から積雪した庭を眺めて制作したのではないだろうか。とすれば、これはアトリエから南向きに描いたことになり、いまでは右の写真のように窓からの風景が相当するのだろう。
 
 中村彝関連の書籍で、もっとも頻繁に登場する写真(1920年・大正9)に、アトリエでモデルに向かって制作しているシーンがある。エキゾチックな容貌のモデルをデッサン中だが、光の加減から東側を向いて仕事中のようだ。アトリエの東端に置かれたソファへモデルを正座させ、北側の採光窓のほうを向かせながら描いている。光が左側から射していることから、中村彝とモデルとの位置関係は明らかだ。装いが夏らしいのに、なぜかソファの手前に丸火鉢が置かれているところが、ちょっと奇妙だ。アトリエの壁面には、当時傾倒していたルノワールの裸体画のようなデッサンが、いくつか貼りつけてあるのが見える。
 
 これらの絵が描かれ、写真が撮られた“その現場”に立つと、奇妙な感覚にとらわれる。時計の針が、一気に逆もどりをしているような、ふいに歴史の中へ降り立ってしまったような不思議な感覚だ。これは、佐伯祐三が描いた『下落合風景』シリーズの“その現場”で感じるものとは、まったく正反対のものだ。『下落合風景』の現場では、ただただ気が遠くなるような時間の経過や人びとの去来を、改めてイヤというほど実感させられる。でも、中村彝のアトリエにたたずんでいると、断りなしに入り込んだことで、いまにも背後から岡崎キイClick!に叱られそうな錯覚をおぼえてしまう。どこかで、中村彝の咳き込む声まで聞こえてきそうだ。
 アトリエの応接室(居間)から庭を眺めていると、林泉園沿いのサクラ並木の枝が風にそよぐ感覚さえよみがえるようだ。次回は、アトリエの内外で撮られた数々の写真と、現在のアトリエの様子とを照合してみたい。

■写真上:もうすぐ春の装いに変わるアトリエ。緑に囲まれると、かわいいアトリエは隠れてしまう。
■作品は、関東大震災で焼失した『保田龍門氏像』(1915年・大正4)。は、翌年の夏に描かれた『田中館博士の肖像』(1916年・大正5)。
■絵と写真は、『落合のアトリエ』(1916年・大正5)と同位置。庭木が大きくなりすぎて、アトリエが幹の陰になってよく見えない。は、『鳥籠のある庭の一隅』(1918年・大正7)と同位置? 枝折戸の位置がはっきりしないが、南側にあったとすると庭の左手あたりか。鳥籠を吊るしたと思われる庭木は、いまや8mを超える大木になり、枝が幹の上部へと成長して見えない。は、同年の『雪の庭』を描いたと見られる、居間の窓から眺めた庭。
■写真下は、1920年(大正9)に撮影された仕事中の彝。は、ほぼ同じ角度から現在の同所。


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kadoorie-ave

画家のアトリエ、もう無条件に好きです。
どんなに素敵なインテリア雑誌の写真よりも、生き生きとしていて居心地良さそうに
見えるものが多いです。
小さい頃、母の「みずゑ」のグラビアでピカソやマティス、
藤田嗣治がアトリエで画を描いている写真を見てこっそり切り抜いてしまったことがあります。
中村彝のアトリエも、雰囲気があって素敵ですねえ。
室内に立ったなら、本当にタイムスリップしてしまいそうです。
画と現在の様子との比較、たまらなく興味深いです。
by kadoorie-ave (2006-03-13 01:48) 

ChinchikoPapa

小野寺さん、コメントをありがとうございます。
わたしは中学時代、美術室のイーゼルと石膏像にあこがれました。黄昏どきのセピア色に変わった室内で、白い「アグリッパ」をいつまでも見つめていたものです。それからしばらく絵の勉強をしていたのですが、途中で急に「なりたい職業」がコロッと変わり(笑)、まったく方向が違う学校へ入ってしまいました。
先週から、なぜか美術ブログのような感じになってしまっていますが、下落合のエピーソードを掘り起こすと、かなりの割り合いが画家たちの軌跡になってしまいます。今週は、「中村彝週間」になりそうです。
by ChinchikoPapa (2006-03-13 11:50) 

悠々美術館

詳細な画像に感銘を覚えます。
私は、保田龍門の資料を集めています。
もし、参考になるものがございましたら、何でもけっこうですので
ヤフー・ブログ「新悠々美術館」までご連絡いただけるとさいわいです。
by 悠々美術館 (2006-10-29 21:19) 

ChinchikoPapa

悠々美術館さん、はじめまして。
保田龍門は中村彝の友人で、彝のデスマスクを造った人としても知られていますが、つい先日手に入れました資料で、和歌山県立近代美術館が収蔵している保田龍門の『トルコ帽の自画像』ほか9点の作品が、1994年に修復研究所(豊島区西池袋)へ修理に出していることがわかりました。つまり、修理すると同時に、作品のさまざまな調査・検査が行われていると思います。その中には、X線撮影も含まれているかもしれませんので、保田龍門の作品制作の「秘密」の一端が明らかになっているかもしれません。
修復報告は、修復研究所から定期的に発行されていますので、お調べになれば保田のレポートも見つかるかもしれません。わたしは、来週にでも佐伯祐三のX線検査についての記事を書こうと思っていたところです。ちなみに、佐伯のさまざまな検査報告は、「修復研究所報告Vol.12」に掲載されています。
by ChinchikoPapa (2006-10-30 00:40) 

ChinchikoPapa

保田龍門の修復レポートですが、詳細報告は作成されていないようですね。
修復研究所サイトの報告ページには、1994年前後に保田龍門の名前が掲載されていません。ご参照ください。
http://www.ars21.co.jp/mokuji.htm
by ChinchikoPapa (2006-10-30 10:31) 

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