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悪趣味も70年経るとそれなりに・・・。 [気になるエトセトラ]

 下落合に住んでいると、大正から昭和初期に造られた和洋折衷住宅や西洋館に目がいきがちだけれど、明治期に建てられ移築されたとみられる旧・前田子爵邸のように、当時、純粋な日本家屋(和建築)のほうが、実は圧倒的に数多く建設されていたのだ。大正期から昭和初期の東京全域を鳥瞰してみても、むしろ下落合や目白界隈が特殊であって、「目白文化村」Click!に象徴されるように“異様”かつ“異形”な住宅街だったことに気がつく。
 昭和初期に企画され、和建築のひとつの到達点ともいうべき、美と技術の粋を集めた建物が、空襲にも焼けずに目白とは反対の目黒に残っていた。目黒川の段丘(バッケ)、急な行人坂に沿って建てられた「目黒雅叙園」だ。桃山風に権現(日光東照宮)風、さらには歌舞伎の大道具などに残る和建築美のテンコ盛り、それが解体される以前の目黒雅叙園の姿だった。町場育ちのわたしの目から見ると、もう野暮で悪趣味きわまりない建築なのだが、それが長い年月を経過してくすんだ時代色がつくと、とたんに懐かしげな、あるいは少々不気味だがセピア調の風情がただようから不思議だ。
 『千と千尋の神隠し』の不可思議な室内デザインは、ここがモデルとなったといわれているが、旧館の建物はもうほとんどが残されていない。かろうじて、行人坂沿いに残る解体をまぬがれ、新館建築の「飯場」=作業員宿舎として使われてかなり痛んでしまった、旧館の「百段怪談」いや「百段階段」(旧・3号館)とその周辺の部屋のみが、ひっそりと眠るように残されている。そんな薄暗い、さまざまな気配がこもっている旧館を、先日、地元のお年寄りに案内してもらった。
 「絢爛豪華」と「美しさ」は、東京では残念ながら比例しない。いつか、江戸東京の着物の美について書いた「一衣舎春展」Click!でも触れたとおりだ。だから、目黒雅叙園のような、どこか田舎じみた野暮ったい豪華さは、ふつうなら成功するはずがなかった。ところが、1931年(昭和6)の開園以来、これがけっこう流行ったのだ。創設者である細川力蔵のコンセプトは、まんまと図にあたり成功したといえるだろう。

 ひとつには、江戸東京っ子のお参り好きと風呂好きに目をつけた点にある。目黒雅叙園の目と鼻の先には、目黒不動や大鳥神社がある。目黒の七福神めぐりだってできてしまう。当時は東京のかなり郊外だった目黒へ、宴会場と風呂を売り物にした雅叙園を建てた。だから、町場の日常の価値観ではなく、ちょいとした物見遊山先の物珍しい、変わった趣向のハメ外し料理屋兼大湯屋・・・という受け止めかたをされたのだろう。開園時からあった雅叙園本館の正面玄関は、ここから先は別世界とばかり、まるで風呂屋のような千鳥破風造りの大屋根がのっていた。建物の豪華さとは裏腹に、料金がリーズナブルだったのも庶民にまで人気が出た要因だったろう。
 ふたつめは、周囲に海軍の施設がかなり集中していたので、東京市民が来なければ軍人相手に商売をしようと、失敗したときの“保険”をかけていた点だ。海軍ご用達の宴会場らしく、旧館の部屋名には「長門」「陸奥」「金剛」「妙高」「鳥海」「足柄」・・・etc、昔日の戦艦や重巡の艦名がついた宴会場がズラリと並んでいた。結局、庶民も軍人も押しかけることになり、目黒雅叙園は拡張につぐ拡張をつづけていくことになる。そして、金銀はもちろん、螺鈿、七宝、銘木、有名画家による極彩色壁画、豪華彫木・彫刻・・・と、いったいどこまで贅をつくせば気が済むのかというぐらいの普請が、敗戦色が漂いはじめた1943年(昭和18)まで繰り広げられることになった。
 

 目黒雅叙園が、単に豪華で懐古趣味的な空間ばかりだったら、すぐに飽きられてしまったかもしれない。でも、細川力蔵は次々と新しい趣向を用意していた。先にも書いた、ラジウム温泉の大風呂設置。「百人風呂」「千人風呂」と呼ばれた豪華絢爛な大風呂は、わざわざ温泉から湯を運ばせて沸かし直す「再生温泉」、現在のヘルスセンターのはしりだった。また、日本で初めて社(やしろ)を園内に勧請し、結婚式場と披露宴会場とをくっつけて、同じ場所で開催できる便利なしくみをスタート。いまや、あたりまえとなった「結婚式場」というコンセプトを取り入れたのも、細川が最初だった。
 こうして、料亭+宴会場+総合結婚式場+旅館+大浴場という一大娯楽センターとなった雅叙園は、「デザイン・装飾の百貨店」あるいは「いま竜宮城」などと呼ばれて繁盛するのだが、戦時中、海軍施設が集中する目黒は空襲でねらわれた。だが、案内していただいた方のお話では、5月23~24日の空襲による延焼は太鼓橋の「太鼓鰻」あたりで鎮火し、バッケの雅叙園は奇跡的に無キズで残ることになる。現在は、目黒川の護岸工事と「アルコタワー」の建設で、豪華このうえない旧館はほとんどが壊されてしまったが、唯一、大円寺へと斜面をあがる行人坂沿いの旧・3号館(百段階段)のみが、ひっそりと当時の面影を伝えている。
 では、さっそく昭和の竜宮城Click!と呼ばれた雅叙園の、いまや宴会客や宿泊客の訪れもなく、すっかりくすんで「神隠し」の館と化してしまった内部を見てみよう。

■写真上:旧3号館(百段階段)にある「漁樵」の間。天井画と壁画は、すべて浮き彫り/透かし彫りに絵の具で着色したものだ。画・菊池華水、彫刻・盛鳳嶺で、いまやおどろおどろしい雰囲気を醸す。
■写真中:昭和初期の、雅叙園記念カラー絵はがき。周囲には海軍施設が集中していたので、「東部軍司令部許可済」の文字が見える。
■写真下:ともに、すでに壊されてしまい現存しない本館正面玄関()と玄関内部()。正面玄関は、欄間に尾竹竹坡の「天馬」が浮き彫りにされ、螺鈿と黒漆と大理石の「小屋組み千鳥破風造り」屋根の豪華さだった。玄関内部は、画・尾竹竹坡と彫刻・盛鳳嶺の「徳川将軍日光廟参拝」と「徳川将軍家大奥四季年中行事遊楽図」。


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ChinchikoPapa

いつも、「読んだ!」ボタンをありがとうございます。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2016-09-19 14:21) 

ChinchikoPapa

くれぐれも、おだいじに。
「読んだ!」ボタンをありがとうございました。>そらそらさん
by ChinchikoPapa (2016-09-19 14:21) 

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