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待望の新装なった落合第一小学校。 [気になる下落合]

 第四文化村の丘上にある落合第一小学校(下落合1309番地)は、1927年(昭和2)に待望の2階建て新築校舎が完成し、翌年には落合第一尋常高等小学校と改称された。1931年(昭和6)には、設立40周年の記念式典が催されている。上の写真は、1929年(昭和4)の同校全景だ。手前に連なる木々が、第四文化村の谷戸地形南東に拡がる森林だ。この左手、西側を箱根土地本社から湧き出た小川が流れていた。
 新築校舎が完成した直後の1929年4月1日、「當校實成績の向上、町民の献身的後援等は一に氏の至誠の賜と云ふべく然かも君子を思はする其の人格と學理に明るき識見とは、教育界の一異彩として信望を博してゐる」と、当時は絶賛されていた佐口安治校長が着任した。佐口は戦後、1949年(昭和24)には全国連合小学校長会の理事に選ばれているので、山中恒の言ういわゆる「ボクラ小国民」「撃チテシ止マム」のようなバリバリの軍国校長とはかなり異なった教育者だったようだ。
 1892年(明治25)に落合小学校として設立された同校は、下落合地区ではもっとも古い小学校だ。今年(2005年)で、創立113周年となる。1908年(明治41)の小学校令により、尋常科6年に高等科2年の制度が採用されている。大正初期まで、同校の生徒数はそれほど多くはなかったが、目白文化村が開発されたころから、生徒数が激増することになる。現在でも、目白文化村とその周辺にお住まいの方々は、お年寄りから十代の若者まで、ほとんどが落合第一小学校の出身者だ。「オチイチ」と親しみをこめて呼ばれる同校はOB活動も盛んで、同窓会は早くも1914年(大正3)から設置されていた。
 

 現在のオチイチは370名余と、どこの小学校でも見られる少子化のあおりを受け、生徒数が減少している。「♪富士が嶺高くも かがやく望み~」と校歌で唄われているが、同校や目白文化村から富士山が望める日は、ずいぶん少なくなってしまった。

■写真上:1929年(昭和4)の落合第一尋常高等小学校全景。
■写真下は2005年の同校、は1907年(明治40)の卒業写真。

「目白文化村」サイトClick!


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tetsuo

落一小の同窓生たちよ。誰かここを見ていないのかね。自分は落四だけど、落合中学では落一の友達がたくさんいた。落一の通学範囲の中でたしか山手通りの向こう側は落合二中にいったはずだから、落一、落二中というコースがあって、そういうのと高校で会ったというのがあったような。
by tetsuo (2005-05-13 18:16) 

ChinchikoPapa

旧・下落合1~3丁目(現・下落合1~4丁目/現・中落合1~2丁目)が落合中で、旧・下落合4丁目(現・中落合3~4丁目/現・中井)と旧・西落合1~2丁目(現・1~4丁目)が落合二中の学区だったんですね。ああ、ややこしい。60年代のように中落合を下落合にもどしてくれると、地勢的にも境界的にもスッキリするんですけれど。(笑)
うちのオズガキどもは落四→落中ですが、いまはそれほど学区がきびしくなくて、新宿区の教育庁に申請すれば、学区外でもあるていど好きな学校へ通えるようです。落四には、高田(豊島区)のほうから通ってくる子もいました。
by ChinchikoPapa (2005-05-13 19:10) 

エム

私は落一小→落二中というコースで、その後進学した都立高校で落中に進んだかつてのクラスメートと再会という経験があります。
小学校の同窓生で今でも地元にいらっしゃる方は、ご実家が商売されていることが多いですよね。
落一小に入った当時は講堂(体育館ではない!)が木造だった記憶がありますが卒業時には今の場所に体育館が建っていました。
by エム (2005-05-13 19:21) 

ChinchikoPapa

インターネットの中で再会、というケースもありますね。わたしの小学校の同級生が、Webサイトを見て連絡をしてきたのですが、ネットというのは懐かしい誰かといつどこで出会うかわからない・・・という、面白い空間でもあります。
実社会では決してありえない、わたしの小学校の後輩にも、けっこう会えましたし。(^^
by ChinchikoPapa (2005-05-14 00:19) 

ノン子

私は昭和36年生まれ、落一 二中と進学しました。母も祖母も落一の卒業生です。校歌 変わってないんですね。校章も。。懐かしい;;坂を下りていったプール、今でも覚えています。夏休みのラジオ体操で校庭に集ったことも。。あの頃の友達は今頃どうしているのかなぁ~。。漫画家の佃公彦さんも落一のОBですよね♪
by ノン子 (2005-05-22 00:28) 

ChinchikoPapa

ノン子さ、はじめまして。コメントをありがとうございます。当時の落一界隈には、まだ空襲をまぬがれた建て替え前の住宅が、かなり残っていたんでしょうね。そのころの文化村界隈を、ぜひ歩いてみたかったです。
「目白文化村」シリーズの拾遺集として、あと4~5編を書いていますので、順次アップしてまいりますね。
by ChinchikoPapa (2005-05-22 02:36) 

こと

落一小の写真の中央よりちょっと右(正門の真正面にあたる)に桜の木がありますが、戦前は桜のとなりに拝神殿があり、朝礼とかの際には拝まされました。
通学は見晴坂から小川を渡り、雨とか雪の日は右手の砂利石が敷かれた坂を登っていきましたが、大体はがけ伝いに裏から入ったりしていました。
小川の橋の右手(上流にあたる)には沢山の土管がおいてあり(改正道路の工事と同時にこの小川を地下に埋め込むためでしょうね)、戦後はここで通りの子供たちと隠れんぼをしたり、鬼ごっこをしたり、缶けりをしたりの絶好の遊び場でした。
 戦前はほとんど記憶にありませんが給食のぱんをかじりながらサイレンの鳴る中を駆け出してこの坂道を帰ってきた思い出だけです。しかも落一小の正門前にあった消防の見晴台に据え付けられた機関銃の音を聞きながらです。
by こと (2005-11-01 21:44) 

ChinchikoPapa

池田さん、こんばんは。コメントをありがとうございました。
「拝神殿」の中には、天皇の「御真影」が入れられていたものでしょうか。コメントの中に、第一文化村の弁天池から流れ出た小川のことを書かれていらっしゃいますが、ちょうど明日アップ予定の佐伯祐三の作品が、改正道路工事が始まる前の、その小川の急峻な西側斜面の情景を描いたものです。
昭和8年まで、落合小学校の正門前には落合町役場がありましたけれど、その後、淀橋区役所の「出張所」化されて、その隣りにあった火見櫓には銃座が据えられていたのですね。これは、初めてうかがうお話です。でも、艦載機ならともかく、B29に機銃の弾はとどかなかったのではないかと・・・。(^^;
by ChinchikoPapa (2005-11-02 00:20) 

ダイヤモンドビクトリー

こんばんは。私は32年3月生まれで、みどり幼稚園・落一小・落二中出身です。
落一小では泉麻人(朝井泉)さんと同級生でした。
泉麻人さんもビックリするブログです。
大変関心してしまいました。
遠い昔を思い出してしまいました。
感謝・感激です。
又、寄らせていただきます。
どうぞ、よろしく。
自分は、楽天でブログやっております。
http://plaza.rakuten.co.jp/iwishlifeplan
by ダイヤモンドビクトリー (2006-01-05 02:53) 

ChinchikoPapa

ダイヤモンドビクトリーさん、お立ち寄りいただきありがとうございました。
下落合教会の「みどり幼稚園」から落二中まで・・・ということは、「文化村」の進学コースそのものでいらっしゃいますね。(^^
わたしの「文化村」の知り合いにも、まったく同じコースの方が何人かいらっしゃいます。ぜひ、いろいろなお話をうかがえればと思います。よろしければ、下記のサイトもご参照ください。
http://www006.upp.so-net.ne.jp/jsc/bunkamura/top.htm
http://www006.upp.so-net.ne.jp/jsc/watashino/ochiai.htm
ブログのご紹介、ありがとうございました。こちらこそ、よろしくお願いいたします。
by ChinchikoPapa (2006-01-05 11:27) 

ダイヤモンドビクトリー

コメントありがとうございました。
落合に特化しているので、かなり昔を思い出すことができ大変感謝します。
ちなみに、自分は第一文化村(中落合3丁目)に住んでいました。
近くにオリンピックとかいうスーパーが、引っ越した後にできました。
車でこの辺を通ると、やはり気になりますね!
興味しんしんなので、また寄らせていただきます。
by ダイヤモンドビクトリー (2006-01-06 12:27) 

ChinchikoPapa

「オリンピック」は、元・箱根土地本社の敷地内(不動園の池があったあたり)ですので、第一文化村の中でももっとも早くから開発されたエリアに住まわれていらしたのですね。
あの「オリンピック」前に、山手通り地下高速道路のとんでもない排気塔(高さ45m)ができてしまうのが残念です。西風が吹きますと、下落合全域に排ガスが接地するとのシミュレーションが出ていますので、最高裁まで争ったのですがダメでした。それでなくても、最近、山手通りの両側は高層マンションが林立し始めていますので、電波障害や風害の話をよく聞きます。
また、ぜひお寄りください。お待ちしています!
by ChinchikoPapa (2006-01-06 15:58) 

津留崎 茂

 昭和38年3月におちいちを卒業しました。担任は、四方先生です。
その後、落合2中、中大付属(元目白中学)、明大と進み、現在は千葉県佐倉市に住んでおります。
 年のせいか、とても、地元のことが懐かしく思えるこのごろです。
あと数年で還暦ですが、一度クラス会を開きたいと思っております。
その頃のことをご存知でしたらどなたかお話しませんか。
by 津留崎 茂 (2007-05-28 23:24) 

ChinchikoPapa

津留崎様、はじめまして。
こちらにも、懐かしい落合(第一)小学校の写真を掲載しています。
http://blog.so-net.ne.jp/chinchiko/2006-05-21
わたしは、落一には関係がありませんが、うちのオスガキがふたりとも落四を卒業しています。こちらには、落一を出られた方々がたくさんコメントを寄せられていますので、どなたかご存じの方もみえるかもしれませんね。(^^
by ChinchikoPapa (2007-05-28 23:37) 

一時帰国中の浪人

1956年(昭和31年)の卒業生です。

暫く落合を離れておりましたが4年前に戻ってきました。
西坂を登ったところ、落一から徒歩で5分ほどの所です。

入学式の時に桜吹雪で歓迎してくれた古木も健在、初めての担任は伊東(伊藤)先生、頭がピカピカ、3色の白墨(?)で黒板に絵を描きながらの授業は懐かしい思い出です。

ヤギもいましたね。小屋から漂ってきたあの匂いもその頃の思い出の一つです。

事情があって日米間を往来しております。
帰国の度に昔のテリトリーを歩いておりますが・・・
旧友連の家々の幾つかは姿を消し、樹木もなくなり少々寂しい思いです。


by 一時帰国中の浪人 (2008-05-13 11:36) 

ChinchikoPapa

一時帰国中の浪人さん、こちらへもコメントをありがとうございます。
昔のことを取材するために、お歳を召した方へお話をうかがいますと、ほとんどの方々が落一小学校の卒業生です。落合じゅうにお住まいのみなさんが、この地域ひとつめの落一(落合尋常小学校)へ通われたんですね。
ふだん親しくさせていただいてます文化村とその周辺にお住まいの方たちは、戦後ももう少したってからの卒業生たちが多いです。だいたい1960年代後半から70年にかけての落一卒業生で、わたしとほぼ同世代になります。でも、昔の落合のことをうかがおうとすると、今度は戦前に卒業された方々がほとんどになります。1956年(昭和31)に卒業された他の方は、このサイトをはたしてご覧になっているでしょうか? どなたかご覧になっていて、コメントが寄せられると楽しいですね。
昔の下落合には、学校や家庭に限らずペットとして飼われていたヒツジやヤギのお話をときどきうかがいます。(^^
by ChinchikoPapa (2008-05-13 14:02) 

小野瀬孝正 (一時帰国中の浪人)

ご返事ありがとうございます。

来月早々には渡米するということで、ふと里心がついて思い出を書かせていただきました。
同級生の目に留まると面白いのですが・・・

我々の世代は親の遺産を相続する歳になり、ご存じのような税制ではよほど若い時からその時を迎える準備をしなければ一切を失う仕掛けになっております。
旧友達の家が徐々に姿を消してしまうのもむべなるかな・・・ですね。

昔の下落合には借家、借地が多くありました。
小生が最初に住んだ家は借家で、今も残っております。(ほぼ60年前)
その後親が家を建てましたが、これは借地で当時の地主は宇田川さんとおっしゃる方、油屋の小野田さん、栗原さんも大地主だったと記憶しております。

丹精こめて育てられた樹木さえ活かせば、刑務所のようなマンションも街並みの景観の一部になれるのですが・・・

我が第二の故郷であるChicago市では、条例により都心部の旧い建造物の取り壊しは容易に許されません。樹木とて同じです。
建物を単体として考えるのではなく、街並みとして考えた結果です。  

夏季には企業、団体の会議や大会が多く開催されますが、これは単にアクセスが良いというだけが開催理由ではありません。
そこに住む人々が街を大事にしている結果、訪れた方々が寛げるからです。

ここの、若い東京滞在経験者は“エクサイティングシティ”と言って我が東京を表現します。
これを褒め言葉として受け取るか否か…小生には難しいところですね。









by 小野瀬孝正 (一時帰国中の浪人) (2008-05-13 17:08) 

ChinchikoPapa

小野瀬さん、重ねてコメントをありがとうございます。
わたしも何度か書いたことがありますけれど、これは下町も山手も関係なく、街の景観を壊していく大きな要因のひとつが、間違いなく相続税ですね。特に、つい20~30年ぐらい前まで神田や日本橋、京橋、銀座に昔から住んでいた人たちは“悲惨”で、おカネ持ちじゃないのに「資産家」現象が各地でみられました。マンションを建ててもビルにしても相続税が間に合わず、選択肢があらかじめ“売る”しかなくて「家族みんなバラバラだよ!」という話を、当時あちこちで聞きました。かといって、ずっと昔からの住民や優れた近代建築の家庭は減税・・・というと明らかな不平等になりますので、難しい課題ですね。
わたしが大学を出たあと、しばらく住んでいた下落合のマンションも借地でした。薬王院の土地でしたけれど、目白駅寄りには同寺や氷川神社の地所が、昔の境内や寺社領の関係からかポツンポツンと残っていますね。
旧・前田子爵邸のタヌキの森もそうですが、利益を最大限に追求するとなると、もう敷地の樹木もなにもあったもんじゃないですね。タヌキの森ではありませんが、昼間作業をすると周辺住民の目が“うるさい”から、早朝のまだ暗さが残るうちに作業員が大挙してやってきて、アッという間に数時間で屋敷林を一気に伐採していった・・・なんて、あきれる「奇襲」の話も近衛町でうかがいました。
下町は東京オリンピックを境に、街並みの景観や風情のなにもない「名所」化が急速に進行しましたけれど、旧・下落合全域に同じ轍を踏んでほしくはないのですが、すでにかなり手遅れの感があります。新宿区は、「落合文化(芸術)村」の本やパンフレットを次々に制作していますけれど、個々人の「対策」だけでは追いつかない、みどりや景観の保全のテーマについても積極的に取り組んでほしいです。
by ChinchikoPapa (2008-05-13 19:07) 

小野瀬孝正

さてさてご無沙汰でした。 Chicagoからです。


昨今はPCという近代兵器のおかげで居ながらにして世界中のニュースを、それも瞬時に入手出来ます。
そこで伝えられる我が国からのニュース・・・あまりにも陰々滅々たるものが多く、晴れて(?)素浪人となった今は耳にも目にも入れたくないものばかり・・・

こちらChicagoでは原油高騰のあおりを食ってのガソリン高(昨夏比で1ガロン当り$1の値上げ)で車から自転車、バス、電車での移動に切り替える人々が増え、東京顔負けのカミカゼ自転車が横行、また出勤退社時のバス、電車は満員、市は山手線のように座席を取っ払い電車の輸送力アップまで考えております。

が、この街を愛する人々は北国の短い夏を謳歌すべく街じゅうを花で飾り、他国、他州からの旅人達老若男女も屈託なく夏を楽しんでおります。

市の中心部は再開発事業が盛んに行われており、特に高級マンションの建設が目立ちます。

が、けばけばしい看板は一つとして見当たらず、大樹は風にそよぎ街の景観を損なうことはありません。

色、音、香りにあれだけの繊細な神経を持っていた我々が・・・
地方都市も含めてあの色、音の洪水を何とも思わぬ。
このことが意味するところは・・・

回答が見つかりません。

by 小野瀬孝正 (2008-07-21 03:13) 

ChinchikoPapa

小野瀬孝正様、シカゴからわざわざコメントをありがとうございます。
日本でも、自動車の交通量がこのところめっきり減っています。マイカーが減り、やはり電車や地下鉄、バスの利用が多くなったようですね。排ガスが減って、少しは空気がよくなったような気がしています。うちのオスガキ(下)は、やや喘息の気があるのですが、このところ症状が出ないところをみると楽なのかもしれません。
最近、日本では耳を疑うような事件がつづき、そんなニュースを見るたびに愕然としてしまいます。自分がなぜそのような事象を起こし行為を行ったのか、自身でまったく説明ができないという不条理きわまりないケースが多く、被害者にしてみればたまったものではないですね。相変わらず、日本では「理性が敗北」しつづけているような状況です。
最近、色の表現をするときに、ビビッドな色名しか言えない人が増えている・・・というのを読みました。濃緑も深緑も新緑も浅黄色も黄緑も青緑も、みんな「みどり」としか表現できないのだとか。わたしの周囲には見あたらないのですが、子どもや若い子たちの世代には増えているのでしょうか。
by ChinchikoPapa (2008-07-21 23:01) 

ChinchikoPapa

以前の記事にまで、nice!をありがとうございました。>kurakichiさん
by ChinchikoPapa (2010-08-16 11:16) 

ぼくあずさ

大学の友人が落一小卒です。拙ブログにミニクラス会の記事が投稿されて初めて知りました。
by ぼくあずさ (2011-11-02 11:45) 

ChinchikoPapa

ぼくあずさ、昔の記事にまでコメントとnice!をありがとうございます。
落合第一小学校は、下落合に明治期からつづくもっとも古い小学校ですので、卒業生がいちばん多そうですね。ご近所の知り合いにも、この小学校OBがたくさんいらっしゃいます。w
by ChinchikoPapa (2011-11-02 12:05) 

小野瀬孝正 改め フーテンの孝

このブログは未だ健在ですか?
7年ぶりの投稿です。
当地Chicagoは季節外れと言っていい程の暖かい日が(=日中の気温10℃前後)2週間ほど続いておりますよ。

年末の帰省を前に帰心矢の如しを鎮めるべく、昨夜は自宅近くにある”ショパン劇場”へ・・・
劇場とは名ばかりの儚げな建物で、その内装はどう見ても素人仕事。
管理費等は寄付金で賄われているらしい。

我が家の界隈、嘗てはポーランド人のテリトリーで(=今でもその末裔が多く住む)、この”劇場”は祖国が誇る大作曲家を偲んで建てられたのであろう。

ダウンタウンから越して来て6年目、お恥ずかしながら新発見!

我が故郷である落合、また旧い建物の消滅を目にするであろうことを想像すると・・・聊か帰心をそがれる想い無きにしも非ず也。



by 小野瀬孝正 改め フーテンの孝 (2015-12-18 05:51) 

ChinchikoPapa

フーテンの孝さん、久しぶりにコメントをありがとうございます。
はい、相変わらず落合地域と江戸東京にこだわって、拙記事を書いています。w こちらも暖かく(きょうは少し寒いですが)、暖房のきいた部屋へ入ると汗ばむ陽気がつづいていました。先週末の東京は、25℃弱あって夏日でした。来週から、また暖かくなるという予報が出ています。
古い建物は、こちらでも随時ご紹介してますようにけっこう解体されていますが、反対に中村彝アトリエのように古いまま復活した建物や、おとめ山公園のように拡張され、相馬邸時代に近い風情で復元された場所もあります。近年では、金山平三アトリエと、その周辺の近代建築がいっせいに解体されてしまったのが寂しいですね。

by ChinchikoPapa (2015-12-18 15:43) 

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