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タグ検索トップ  >  記事  /  重松 敏美
記事 での「重松 敏美」の検索結果 13
求菩提山の衰退
 全国的にみても元禄という時代は、修験道にとって極めて重要な時期で、元禄一一年は山伏の開祖とする役行者の千年忌に当たり、各山々も盛大な法要を行い、本山の法要にも集まった。 求菩提山の本山は京..
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山伏文化
近年の松会は、徐々に古様の形態が薄れつつある。惜しまれてならない。 そうした中で、桧原山正平寺の松会は、田行事に興味をおぼえる。 数年間連続してみているが、一定の形態を崩すことなく、守..
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求菩提山の神々
もともと山の信仰とは、古い時代から山を崇拝してきており、山自体を神とした奈良の三輪山は著名である。 また日光の二荒山(ふたらさん)、九州では大宰府の宝満山がそれである。ところで、名も..
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幣切り行事
 等覚寺(とがくじ)の祭りは四月一九日である。  ここで最高の見物は、高い松柱を立て、その柱の上で山伏が御幣を切る一場面がある。 松会のクライマックスは、この一瞬である。  それはどうい..
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夏安居(げあんご)
 一山の中には、今でいう年間のスケジュールがあった。その骨格をなしているものに夏安居がある。四月の一五日から、七月の一五日までである。 これを一夏九旬、あるいはよく資料に夏中とか、夏籠な..
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求菩提山の千日行
この(住人注;比叡山の回峰に対し、求菩提山は山に籠る)千日行が求菩提山に明治まで続いた理由は、一山に勅願師を置いたということである。勅願師はこの千日行満行をもって任じられたのであった。明治ま..
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神と仏の共存と神仏分離
 私は、真言密教の日本の思想に対するもっとも大きな影響は、真言密教によって神と仏が一体となったことであると思う。六世紀半ばに移入された仏教は従来の日本の神道とトラブルを起こし、その結果、蘇我・物部の戦..
タグ: 梅原 猛 重松 敏美 望月 信成 植島 啓司
豊前地方の山伏
率直にいって、中世の豊前地方の山伏は、戦う山伏といった印象を強くいだく。山伏が山武士的なイメージをこれほど滲ませた時代はないであろう。  英彦山などは、強力な武士集団を敵に回して..
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常在山 如法寺
 次のバス停を山内(やまうち)という。山内とは、寺の山内(さんない)という意で、ここはかつての壮大な寺跡があるが、江戸期に禅寺を再興し現在におよんでいるが、山門には創建当時の仁王像が残る. ..
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千手観音堂 岩屋山泉水寺
 宇島駅から求菩提に行くバスの途中、才尾(さいお)というバス停がある。そこで下車し、二〇分ほど歩くと千手観音堂がある。  千手観音堂は、もと岩屋山泉水寺(いわやさんせんすいじ)といい、平..
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日本での茶
 日本での茶の資料の初見は、弘仁六年(八一五)の「日本後記」で、崇福寺の大僧正永忠が嵯峨天皇に茶をたてまつったとある。 また日本に将来された茶は宮廷儀礼のなかでわずかに命脈を保ったが、まさに..
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山伏たちの巣窟地帯
旧豊前路とは、北部九州の瀬戸内に面したところである。福岡県の東部と、大分県の北部からなる。 都市名で言うと、北九州市から宇佐八幡宮の鎮座する宇佐市の間である。 ここが、かつての鎮西修験道..
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