記事 での「親鸞を読む」の検索結果 2,830件
信心か念仏か(第11章)
(6)信心か念仏か(第11章)
さて第10章の「念仏には無義をもつて義とす。不可称不可説不可思議のゆゑにと仰せ候ひき」のあと、後半の「歎異篇」がはじまり、「上人の仰せにあらざる異義ども」が8章..
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薬あり毒を好めと候ふらんことは、あるべくも候はず
(5)薬あり毒を好めと候ふらんことは、あるべくも候はず
これは善悪についての不可知論であると言えます。「ほとけのはからい」は不可称不可説不可思議であるということです。
さてしかし、「ほとけのはから..
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善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり
(4)善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり
キリスト教の世界においても「全知全能の神がこの世界が創ったのに、どうして悪が存在するのか」という深刻な問いがあります。『ヨブ記』を読みますと、義人ヨブ..
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ほとけのはからい
(3)ほとけのはからい
「わたしのはからい」はそっくりそのままで「ほとけのはからい」であるという気づきがないところでは(「わたしのはからい」しかないと思い込んでいるところでは)、本願念仏は「ほとけの..
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はからいがない
(2)はからいがない
「はからふ」ということばを辞書でしらべてみますと、「はかる」に「ふ」という接尾辞がついたもので、そして「はかる」とは「おしはかる」「見当をつける」という意味だとあります。考え..
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不可称不可説不可思議
第10回 無義をもつて義とす
(1) 不可称不可説不可思議
「故親鸞聖人の御物語」の最後、第10章です。
念仏には無義をもつて義とす。不可称不可説不可思議(はかることも、ことば..
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「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」
(10)「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」
これまで、死の怖れの正体が煩悩すなわち「われへの囚われ」であると気づくことで、死の怖れが緩和されることを見てきました。そのことがここでは「いそぎ..
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正体見たり
(9)正体見たり
仏教は煩悩を断つことにより死の怖れを克服できるという教えではありません。煩悩を断つことはできず、したがって死の怖れを克服することはできないと説く教えです。煩悩を断ち、死の怖れを克服..
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煩悩を断つ?
(8)煩悩を断つ?
親鸞にとって死はその人にとっての総決算(そこに向けてその人の生が方向づけられている)というようなものではなく、「なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに..
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死をおそれざる
(7)死をおそれざる
『一言芳談』に敬仏房のことばとして「或時仰せらるる、年来死をおそれざる理をこのみ、ならひつる力にて、此所労(病です)もすこしよき様になれば、死なでやあらんずらむと、きものつぶる..
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死なんずるやらんと
(6)死なんずるやらんと
第9章の後半です。
また浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、いささか所労(病気)のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫よ..
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生死すなはち涅槃なり
(5)生死すなはち涅槃なり
大乗仏教の極意は「生死即涅槃」あるいは「煩悩即菩提」にあると言われます。生死がそのまま涅槃であり、煩悩がそのまま菩提であるというのですが、さてこれはどういうことか、なか..
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