記事 での「親鸞を読む」の検索結果 2,828件
原因としての念仏は手柄としての念仏
(5)原因としての念仏は手柄としての念仏
犯人が誰か分からないことがあっても、犯人がいないなんていうことがあってはなりません。犯人がいないと、怒りをどこに向けていいのか分からなくなります。草の..
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不都合なことには必ず何らかの原因がある
(4)不都合なことには必ず何らかの原因がある
ヨブの答えはこうでした、「われわれは神から幸いを受けるのだから、災いをも受けるべきではないか」。こうしてヨブはサタンの予言を覆すのです。
その..
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ヨブ
(3)ヨブ
カントは、「ものごとにはかならず原因がある」ということは、われらに「与えられている(gegeben)」のでなく、「課せられている(aufgegeben)」のだと言います。
その..
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原因と結果
(2)原因と結果
念仏と往生が切り離されるということは、念仏が往生の条件となるということです。念仏という原因が往生という結果を招くと言ってもいい。
原因と結果、ここには多くの謎があります。..
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本文22
第12回 死者としての仏
(1)本文22
これは多念の証文なり。おもふやうにはまふしあらはさねども、これにて一念・多念のあらそひあるまじきことは、おしはからせたまふ..
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「いるかのように」
(15)「いるかのように」
この「疑いつつある」という微妙なスタンスをよくよく考えてみますと、そこにはわれではない誰か(他者)がいるのではないでしょうか。
われは「われはあるのか」と自ら..
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仏を「観る」とは
(14)仏を「観る」とは
仏を一心に「観る」という方は、浄土思想でありながら聖道門の仏教と馴染みやすく、たとえば天台宗では円仁により「常行三昧」として延暦寺に持ち込まれることになります(親鸞は..
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再び「観る」と「聞く」
(13)再び「観る」と「聞く」
善導はこの『観経』下品下生段を『大経』の第十八願、「十方の衆生、心をいたし信楽してわがくににむまれんとおもふて、ないし十念せん。もしむまれずば正覚をとらじ」に結..
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「称える」ということ
(12)「称える」ということ
このように浄土思想には阿弥陀仏をこころに「観る」ことで一体化する流れと、阿弥陀仏の声を「聞く」ことで歓喜踊躍する流れの二つがありますが、これで終わりではありません..
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「観る」と「聞く」
(11)「観る」と「聞く」
まずは『般舟三昧経』ですが、「般舟三昧」とは、「諸仏現前三昧」という意味で、七日あるいは九十日間、仏にこころを集中すること(これが三昧で、定とも言います)により、十..
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浄土思想の二つの流れ
(10)浄土思想の二つの流れ
これまでをふり返っておきますと、「信知す」という善導のことばは「信じる」ことと「知る」ことを合体させていますが、この二つは対照的ではないかと考えてきました。「知る..
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見えない力はそれに気づいてはじめて存在する
(9)見えない力はそれに気づいてはじめて存在する
見えない力はそれに気づいてはじめて存在することが分かります。「させられている」と感じてはじめてそれが存在することになるのです。くじ引きの場合は..
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