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石田堤跡(埼玉県行田市) [歴史散歩]

 石田堤(いしだつつみ)とは、豊臣秀吉が関東を平定するために北条氏方と戦った1590年の「小田原の陣」の際に、石田三成軍が忍城(埼玉県行田市)を「水攻め」によって攻めるために築いた堤防のことです。
 場所は、JR高崎線の北鴻巣駅から北に歩いて30分程です。車の場合は、県道306号線(上中森鴻巣線)を走り堤根(つつみね)に入ると、史跡案内の看板が道路西側に見えるので、そこを曲がって突き当たりが石田堤跡です。
 石田堤は、全長28キロメートルにも及びますが、すべてを新しく築造したのではなく、もともとあった堤防に盛り土をしたり、堤防と堤防をつなぎ合わせるなどして築いたようです。わずか1週間程度の工期だったと言われています。現在残っているのは、この堤根周辺の二百数十メートルととさきたま古墳群(埼玉県行田市)の丸墓山古墳の近くだけです。
 忍城は、その城主である成田氏長が小田原城に籠城していましたが、1590年6月20日に、豊臣秀吉に降伏しました。しかし、成田氏長の降伏後も忍城は籠城を続け、小田原城の開城のあとの7月10日前後にようやく開城しました。
 石田堤によって城を完全に水浸しにすることはできず、また堤防の一部が決壊したこともあり、作戦は思うようにうまくいかなかったようです。

行田市堤根に残る石田堤跡の一部。

上の写真の場所よりも南に下ったところにある堀切橋付近の石田堤。
このあたりの堤が決壊し、石田方に被害が出たようです。

堀切橋を渡ってさらに南に行くと、石田堤史跡公園があります。このあたりは吹上町になります。
上越新幹線の高架がすぐ近くを走っています。

石田堤跡は、約2km北にある「さきたま古墳群」の丸墓山古墳の近くに残っています。
ここでは現在、石田堤跡は丸墓山古墳へ行く道となって使われています。

丸墓山古墳の上から南に見た石田堤跡。

丸墓山古墳の頂上から、北西に忍城跡(埼玉県行田市)方面をのぞむ。残念ながら肉眼では城跡を確認することはできませんでした。(2006年3月25日)
■参考資料
『1988年版常設展示解説図録』行田市郷土博物館
『埼玉県の歴史散歩』埼玉県高等学校社会科教育研究会歴史部会編、山川出版社、2005年

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タグ:戦国時代
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