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宮沢賢治と音楽そして… [宮澤賢治のクラシック]

久しぶりの書き込みだ。
完全な夏休みとなってしまったが
じつはいろいろなことが今月はあった。
ほんとは賢治生誕111年の誕生日に花巻に行く予定があったが
それも残念ながらかなわなかった。

じつは最近そのこともあってか
宮沢賢治の聴いた賢治の聴いた曲や演奏をいろいろ聴いていた。

賢治の手元にあったレコードをみるとそれにじつに興味深いものがあった。
私淑しているベートーヴェンがかなりあったが
その前後のモーツァルトやシューベルトはあまりなく
むしろベートーヴェンの死後五十年ほどして以降にあらわれた曲が多いということ。
しかもそこには極めてメロディラインがしっかりと聴き取れるもの
それもどこか民謡風ともいえるメロディが溢れたものが目に付いた。
ボロディン、スメタナ、ドヴォルザーク、シベリウス、チャイコフスキー
まさに国民楽派勢ぞろいといったところだが
このあたりに賢治の趣味性がみとれる。
チャイコフスキーは厳密には国民楽派ではないものの
その愛聴していた交響曲第4番の終楽章は
いくつもの民謡が旋律の元となっている。

そのためだろうか
この間の作曲家の特に交響楽や管弦楽において
メンデルスゾーン、シューマン、ブラームス、ブルックナー、マーラー
そして交響曲第4番を除くチャイコフスキー
といったところが当時の録音事情もあっただろうが
賢治が残していたレコードリストには存在していない。
たしかに一時期はそれらの曲も賢治の手元にあったのかもしれないが
これにはじつに興味深いものがある。

それに対してRシュトラウスやドビュッシーそしてストラヴィンスキーがその賢治のリストにある。
ストラヴィンスキーの場合「火の鳥」がそのリストに入っているが
この曲の場合はロシア民謡が元になっている部分が多いのであれだが
シュトラウスの「ドン・ファン」や「死と変容」と
ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」というのはちょっとそういう意味では意外という気がする。
かたや後期ロマン派的色彩的かつ豪華絢爛なオーケストレーションを誇り
かたやそういうものから脱却した淡い色彩をベースにした印象派的な音楽であることをおもうと
それまでの賢治のそれにあてはらないからだ。

ただシュトラウスの「死と変容」は賢治の妹トシの死が、
賢治にとってこの曲の曲想と重なっていたのでは?ということを思うと、
これだけは別と考えるべきだろう。

このように賢治のそれはかなり傾向がはっきりしたものとなっているが
それは愛聴していた音盤にも多少あらわれているように感じられる。

プフィッツナーが指揮したベートーヴェンの田園やフルトヴェングラーの運命など
その曲想をじつによく描いたしかもメロディーがかなりはっきりと聴き取れることから
賢治はベートーヴェンでも古典的なものよりもロマン的なものを
というよりベートーヴェンの曲想を強く表出した演奏を好んでいたようにも感じられる。
フリートの第九も派手ではないが合唱の量感も手伝った見事な演奏で
劇的迫力にも事欠かないものとなっている。

以上のように賢治の愛聴していた曲及び演奏は
いろいろな意味でメロディに強い嗜好性をもったものが多いが
そういえば賢治の作品の多くがそれを読むと不思議な流れのようなものを感じるときがある。
これは賢治が音楽から影響を受けただけでなく
本来持っていた賢治自身の本質がそれと近しいものだったということもあるのだろう。

そんな賢治だが彼が自らチェロを手にし東京でその指導を仰いだ時期(1926)の前後は
じつはいろいろな意味において音楽に劇的な事柄がおきた時期でもあった。

まず1925年にそれまでエジソンが1877年に蓄音機を発明して以来
たしかに進歩はあったもののアコースティック録音の枠から抜け出せなかった録音技術が
蓄音機発明から半世紀近くたったこの時期に電気録音が登場革命的なほど音質が向上した。
そしてわが国でも山田耕筰が日本交響楽協会を設立、
日露交歓交響管弦楽大演奏会が挙行され、
翌年1926年には協会による第一回演奏会も行われた。

そして1927年にはベートーヴェン没後百年、
そしてN響の前身、新交響楽団の第一回定期公演が行われた。

賢治が上京しチェロを習った時期や
ベートーヴェン没後百年記念のレコードコンサートを開いたり
賢治のもっていたベートーヴェンの交響曲のレコードにおいて
電気録音ものが最後多かったことを思うと
この頃の音楽界の状況の推移や変化は賢治にとっても他人ごとではなかったと思われる。

それにしても晩年賢治が体調を崩した時期のころから
プフィッツナーの田園やフリートの第九といった
1929年の録音の当時としてかなり優秀な音盤が賢治の元を訪れたが、
これを耳にした賢治はより長く生きそしてより音楽を聴きたいと願い
それが1933年の9月までとはいえ寿命を伸ばすひとつの支えとなったのではないかと
そんな気が最近するようになった。

賢治と音楽についてはまだまだ書きたいことはあるが
かなりの長さになっているし思いついたまま書いているので
構成もはなはだ散漫になっているのでこのへんで〆させていただきますが
賢治にとって音楽とはいったいなんだったのだろうかという気がすると同時に
もし賢治がバッハの受難曲やブルックナーの交響曲
さらにはマーラーやシベリウスの後期の作品群を聴いたら
いったいどういう感想をもったことだろうと
チェリビダッケの指揮するブルックナーの交響曲第4番の終楽章などを聴くたびに
最近特に強くそう感じる今日この頃。

それとも賢治にはもうそれらの音楽が聴こえていたのだろうか。


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