SSブログ

三沢空港(旧海軍三沢航空基地) [├空港]

  2004年9月、2023年6月訪問 2023/6更新  


無題e.png
測量年1944(54-12-3 小川原沼)  
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成)
6.png
撮影年月日1947/11/11(昭22)(USA M638 20) 
出典:国土地理院ウェブサイト(地理院データを加工して作成) 無題d.png
SkyVector.com

青森県三沢市にある「三沢空港」。

昭和6年にすぐ近くの淋代(さびしろ)海岸を離陸したプロペラ機が太平洋無着陸横断に成功しており、

それから11年後の昭和17年、ここに大日本帝国海軍三沢航空飛行場が開設されました。

先頭のグーグルマップは、「ミサワ航空史」に載っている日本海軍当時の地図を優先しつつ、

上に貼った航空写真を参考に作図しました。

■防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調

には、「三沢空開隊(S17.2.1)」とありました。 

■「ミサワ航空史」に当飛行場について非常に詳しく紹介されていました。

特にここに航空基地が建設されたいきさつ、末期について、戦後の占領統治下の様子について、

29p以降次のように記されていました。

 昭和13年10月26日、海軍飛行場として、村有地 後久保一〇四番二九号一一六町九畝二三歩 後久保一〇四番七号原野三二〇町七反五畝一六歩 淋代平一一六番二九号一一六町九畝二六歩(合計四六一町二反五畝五歩)を売却する議案が村会に提出され可決された。
 昭和13年、軍馬放牧地と雑木林770万㎡を買収し、長さ1,200m、幅80mの滑走路を造成し、それを基幹として三沢高校前に大湊海軍航空廠三沢分工場が、姉沼をはさんで対岸の現在の「像の檻」のあたりに予科練習生教育施設、天ケ森に対地爆撃場が建設され、これらは太平洋戦争勃発に間に合わせるかのように昭和16年に完成した。この航空基地建設作業には、昭和14年9月から、青森刑務所服役者人員200~600人が終戦まで出役していた。
 昭和17年2月10日、三沢海軍航空隊は、木更津で大湊警備府所属として一式陸攻27機で編成、4空の編成に加え、2番目となる新しい陸攻が編成された。三沢海軍航空隊は、原隊の地名からこのように命名され、本州最北端である青森県に位置することになった。三沢海軍航空隊は、第74帝国議会で航空隊関係予算として3,1791,611円で可決され、陸上攻撃隊三隊・機数48機、新設第18航空隊の一つとして結成され、同年3月17日、最初の航空機となった一式陸上攻撃機5機が飛来したが、「砂嵐のため着陸できず、木更津基地に引き返した」と記録にある。
 この地は、冬の雪、春の嵐、初夏の霧と、この当時の航空機を飛ばす土地としてはあまり良い条件ではなかったが、飛行場施設工事の遅れと積雪のためもあって、当分木更津駐留となり、ここから戦場に急行したことになる。(以下略)

48p 横須賀海軍航空隊審査部「藤部隊」
 ここで、三沢基地に「藤」部隊に触れなくてはならない。
 昭和19年7月10日の海軍の機構改革で、横須賀海軍航空隊審査部が、横須賀から三沢に移動してきたのは、昭和20年4月~5月であったこの部隊は、試作機や改造機などの試験や飛行実験を行う部隊であったが、もともと海軍航空廠飛行実験部という基幹で、機構改編で横空審査部と改称されていたが、三沢基地に移駐してからは「藤」部隊と呼ばれていたのである。
 この部隊の行っていたことは、
海軍試作重爆撃機「連山」の試験飛行
我が国初のジェット特攻機「橘花」のエンジン「ネ20」の空中実験
試作戦闘機「烈風」の飛行実験
零式戦闘機六四/五四型の試験飛行 などであった。
 米軍機の空襲を予期した日本海軍は、横須賀にあった審査部を三沢基地に移動して、試作機の開発や改造機などの試験やテスト飛行を実施していたのである。ということは、本県上空をこれらの飛行機が飛び回っていたことになる。

53p
 終戦の年、昭和20年9月25日、砂浜であった青森市八重田・沖舘両海岸に上陸した米第81師団は「青森軍政府」を青森市公会堂に置いて、その日のうちに弘前市と八戸市に進駐を完了し、青森県全域を占領した。
 三沢飛行場の占領は、翌日9月26日となったが、米軍は先遣隊を派遣して安全を確認し、翌27日には米第81師団の内、パーカー陸軍大佐以下1,700名が古間木(現三沢駅)に到着し、三沢元海軍航空基地に進駐し、宿営の準備を完了した。こうして、三沢飛行場の兵舎や諸施設、兵器などは米軍によって接収され、10月10日にはすべてを米軍が接収を完了した。この部隊に先駆けて、9月14日にディビィス・K・スターク大佐が率いる第32施設工兵隊が進駐しているが、これは飛行場確保のために中央から特派された部隊であった。この部隊の任務は、三沢基地を完全に修復して、占領軍がこれを活用できるようにすることであった。
 最初に三沢基地に入ったのは、第49戦闘大隊であったが、滑走路が完全に修復していなかったので、その間には米海軍や米陸軍が入れ替わって飛来した。これは日本の北の空を守るためであったという。(中略)

 三沢空軍基地は、1949年(昭和24年)から「ミサワ・エア・ベース」と改名した。占領下でのマッカーサー元帥の権力は、天皇に代わる「帝王」的存在であったのと同様に、青森軍政府(司令官ロバート中佐)も、この威光のもとに青森県政に対しても超法規的な権限があったし、また三沢基地司令官も三沢飛行場周辺の町村についても占領政策遂行のため莫大な実権を握っていた。
 青森湾上の輸送船から上陸用舟艇に便乗して、青森市沖舘海岸に上陸した米軍は、青森市郊外油川飛行場を確保・使用する予定であったが、同じ戦勝国でも共産主義を奉ずるソビエト軍が、東北・北海道を占領する意図があることが判った米軍は、急遽予定を変更して、三沢飛行場を使用することに決定した。
 当時の三沢飛行場は、米艦載機の空襲によって、滑走路はともかくとして、周辺の兵舎・格納庫などの施設はすべて使用不能の状況であったので、これらすべてを建て替えることになっていた。
 このようのような(ママ)状況で、マッカーサー元帥の命令とあって、滑走路を含む大工事(一時的に「20世紀最大規模の難工事」といわれた)が、日本政府が全面的にテコ入れして、全国規模で国内建設会社の内、超一流のゼネコンに号令して、総力を挙げで成し遂げることになった。青森県においても、県内の工事をすべて停止してでも、この工事に集中させることになったし、定期バスを止めても自動車という自動車をすべて集めることになったのである。マッカーサーの命令を受けて、全国各県の知事は滑走路建設要員を強制徴用して三沢に送り込んで協力しなくてはならなくなったのである。
 そのため毎月のように、ピーク時には1日に2,000人の建設作業員と、貨車300輌の建設資材が古間木駅(現在の三沢駅)に送られてきたのである。これに対応しきれなくなった国鉄は、東北各県の駅に呼びかけ、400名(常時45名)の応援隊を集めて、建設資材の輸送に協力させられた。急転直下、「マッカーサー元帥の命令」となれば、これまでの「天皇陛下の御命令」に代わるものであったのである。占領行政時代のアメリカ軍の権力は非常に強力なもので、国の定める憲法の上をゆく占領行政で、マッカーサーの一挙一動で、日本人の行動に対する強い拘束力を持ち、事のいかんに拘わらず、これは絶対服従という体制の中で進められた占領行政の7年間の経過であった。

戦後米軍に接収されましたが、昭和29年に航空自衛隊が展開。

昭和46年に米軍から空自に管制権が移管され、昭和60年に飛行場の管理権が米空軍に代わる、とパンフにありました。

民間機の乗り入れは昭和27年に始まりました。

40年に一旦民間機の乗り入れは停止しましたが、昭和50年に運行再開。

民間用のターミナルビルが完成したのが昭和52年で、現在のビルは昭和56年から使用しているものです。

 

実際にお邪魔した三沢空港は小さな町外れにある空港という感じでした。

空港は全体的に古くてこぢんまりとしています。

ターミナルビルの端に展望デッキに上がれる階段があったので、すぐ上がりました。

建物の屋上の一部が展望デッキになっています。

展望デッキに上がるとすぐにF‐4がやって来ました。



現在の管理者は米空軍で、在日米軍、空自、民間航空の三者が共同使用している日本で唯一の飛行場。

東京の米空軍横田基地を民間空港として利用するという構想について聞くと、

なんだか突拍子もないことのように聞こえるのですが、ここは既にそれ以上の運用をしています。

滑走路は3,050mx45m。

輸送実績は、平成10~14年まで年間50万人の後半で推移しています。

ただし、貨物取扱量が年々増加し、4年で1.4倍になっています。

東北の他の空港が旅客、貨物共に輸送実績は横ばいか、下降線をたどっているのと比較すると、

大きな特徴となっています(追記・その後利用者数が年々大幅に減少を続け、H18年度は約32.2万人)

PBB

展望デッキから見える風景。

すぐ隣にビジネスホテルがあり、壁に大きく「一泊朝食付 4800円」と書かれてました。

目の前にエプロンがあるので駐機中の旅客機はよく見えますが、ここは滑走路の端に位置していて、

画面真ん中を横切る濃い緑が死角となり、離陸を開始した飛行機はすぐに見えなくなってしまいます。

三沢から太平洋無着陸横断したことを示すターミナルビルの壁面。 


(以下2023年6月撮影)

DSC_0619_00001.jpgDSC_0625_00001.jpgDSC_0624_00001.jpgDSC_0621_00001.jpg


        青森県・三沢空港        

    ビュー:☆☆★★★  
旅客機は本数が非常に少ないが,空自,米軍機はしょっちゅう飛んでいる。
ただし,防風林?が死角になり,滑走を始めてすぐに見えなくなってしまうのが残念。
展望デッキは大人1人100円。ベンチ以外何もなく,スペースは小さめ。
展望デッキから管制塔が見えない空港。
ミリタリー系の方にはたまらない場所だと思う。たまたまかもしれないが,戦闘機が編隊を組んでの離発着を多く行っていて,単独飛行の方が珍しかった。
展望デッキは離着陸を眺めるのにはあまり適さないが,空港周辺を少し探せば,迫力のある離着陸を拝めるポイントはいくつも見つかる(と思う)。 

    施設:☆☆★★★  
レストラン,特に土産物屋が充実している。飛行機関連グッズはなし。
古くて小さなターミナルだが,案内表示は親切で分かりやすい。
ターミナルビル前に有料駐車場があり,すぐ近くに無料駐車場がある。

    マニア度:☆☆☆☆☆  
空自,米軍機がたくさん見れる。
航空ファンはここに来たら,淋代海岸と航空科学館に行くべし!! 

    総合:☆☆☆★★  
ここはかつては北の脅威に対する備えという意味で,軍事的存在意義が今よりずっと大きかったはず。
町外れの寂しい場所にターミナルビルがある。でもオイラはこういう雰囲気結構好き。

・三沢航空基地(日本海軍当時) データ
設置管理者:日本海軍
種 別:陸上飛行場
面 積:457.4ha
滑走路:1,400mx80m(04/22)、1,400mx80m(15/33)、1,500mx80m(10/28)(アスファルト)
(面積、滑走路長さは「三沢航空史」から。方位はグーグルアースから)

・三沢飛行場(現在) データ

設置管理者:アメリカ空軍
3レター:MSJ
4レター:RJSM
空港種別:共用空港
運用時間:8:30~20:00
所在地:青森県三沢市平畑
標 点:N40°42′09″E141°22′32″
標 高:36.0m
面 積:183ha
滑走路:3,050m×45m
磁方位:10/28
航空管制周波数
・飛行場管制 
 三沢タワー 118.10 123.10 126.20
 三沢グランド 118.65 126.20
・進入・ターミナルレーダー管制
 千歳アプローチ 120.70
 千歳ディパーチャー 125.30
・航空路管制
 札幌コントロール(三沢東セクター)124.50 120.575
・飛行場情報放送 
 三沢ATIS 128.40
・TCAアドバイザリー
 三沢TCA 124.05

沿革
1938年04月 21日 三沢村会で村有地淋代平、後久保のうち約450町歩を海軍飛行場用地として売却を議決
       「ミサワ航空史」29p「10月26日、村有地計四六一町二反五畝五歩を売却する村会議案可決」とあり
     06月 三沢村勤労奉仕団 飛行場用地伐採作業開始
       「ミサワ航空史」29p「昭和13年、長さ1,200m、幅80mの滑走路を造成」とあり
1939年04月 1日 第74帝国議会、新設18航空隊の1つとして三沢(陸攻3隊48機)予算可決(31,790,613円)
     09月 滑走路工事はじまる。建設作業に青森刑務所服役者出役。人員200~600名が終戦まで従事
1940年10月 格納庫工事着工
     12月 三沢村愛国婦人会、軍用飛行機・愛国号を献納のため募金を行い、604円15銭献金する
1941年04月 8日 三沢村愛国婦人会 86円5銭を軍用機献納費として寄付
1942年01月 三沢航空隊のA・D官舎建設開始。翌1943年5月完成
     02月 10日 三沢海軍航空隊開隊。大湊警備府所属、木更津で編成一式陸攻27機。
       飛行場施設工事中と積雪のため飛行隊は当分木更津駐留となる
       (防衛研究所収蔵資料には「三沢空開隊(S17.2.1)」とあり)
     03月 17日 索敵任務につくため木更津より5機が三沢飛行場に飛来したが、
       天候不良と砂嵐のため10日間待機の後木更津に帰る
     04月 1日 三沢航空隊が第11航空艦隊第26航空戦隊に所属替えとなる
       18日 ドーリットル隊16機による空襲。木更津から三沢雷撃隊8機が探索を行うが発見できず
       26日 この日の索敵行動をもって日本空襲米空母の索敵行動を終わり平常哨戒任務に戻る
     07月 3日 第26航空戦隊がサイパンに進出を命ぜられる 三沢航空隊は木更津に移動
       5日 第22航空戦隊司令部が三沢に移動。木更津の原隊約110名三沢に移動し飛行場の管理に当たる
     08月 1日 尻屋崎南東で商船を雷撃した米潜水艦を三沢の元山隊2機が撃沈
     07月 27日 三沢海軍航空隊サイパンに移動を完了
     08月 8日 三沢航空隊テニアンからラバウルに進出
     08月 12日 飛行場建設工事完了。滑走路巾80m・長さ1,400・1,400・1,500の三角形型
     10月 28日 佐伯航空隊の艦爆8機が三沢飛行場に移動。大湊警備府揮下、本土東北海上索敵哨戒任務
     10月 29日 元山空、三沢飛行場から木更津に移動
     11月 1日 海軍作戦航空隊の名称が全国的に改訂。三沢航空隊は第11航空艦隊第26航空戦隊「705飛行隊」
       と改称。705航空隊主力はソロモン諸島方面で活動中
1943年01月 7日 三沢航空隊原隊、第41航空基地隊分遣隊に改編される
     05月 1日 霞ケ浦海軍航空隊三沢分遣隊開隊
     05月 15日 第41海軍航空廠三沢分工場設置
     06月 3日 海軍201航空隊(戦闘機隊200名)三沢に移動
     07月 14日 三沢航空基地で新兵教育開始。水兵(補充兵)40名
     10月 1日 三沢航空基地の管理部隊を大湊航空隊が担当
     10月 11日 第41海軍航空隊 三沢補給工場設置
     10月 15日 三沢に第752航空隊(陸攻)を配備
     11月 20日 霞ケ浦海軍航空隊三沢分遣隊員は中期訓練(甲飛十期)を終わり閉隊となる
     12月 28日 大湊航空隊、三沢に派遣隊を置く
1944年01月 10日 三沢航空基地に外戦航空基地工事の件、訓令(官房設機密第49) 工事主管・大湊海軍施設部
     03月 4日 海軍の空陸分離令により705航空隊の三沢原隊が大湊警備府指揮下に入る
     04月 1日 三沢航空基地爆撃場として海軍が天ケ森牧場組合牧場の一部を買収する
     04月 25日 第27航空戦隊司令部駐留。北方作戦の準備する
     05月 20日 第7空襲部隊が三沢に帰着。第252航空隊主力は三沢に配備
     08月 15日 第12航空艦隊第23魚雷調整班配置。人員216名
     09月 1日 第19練習連合航空隊三沢航空隊開隊。隊員1,216名 甲種飛行予科練習生476名 陸上練習機12機
     10月 1日 第41航空基地隊三沢分遣隊解隊
     10月 20日 大湊航空隊三沢派遣隊解隊
     12月 17日 三沢航空基地に飛行機空中輸送協力部置く
1945年04月 19日 横須賀鎮守府横須賀海軍航空隊審査部(通称「藤」部隊)三沢を試験飛行場として横須賀から移転
     06月 第19練習連合航空隊三沢航空隊に第16期予科練習生946名入隊
     06月 24日 「剣」作戦発令。7月上旬第一「剣」作戦部隊が三沢で編成される
     06月 30日 第19練習連合航空隊三沢航空隊解散
     07月 1日 第724海軍航空隊編成される
     07月 14日 三沢飛行場が米艦載機の空襲を受ける。「剣」作戦延期
     08月 6日 連合艦隊司令長官、第三航空艦隊司令長官、軍令部次長、高松宮など海軍首脳、
       三沢で行なわれた「剣」「烈」作戦合同訓練を視閲。その後検討会(特攻部隊の壮行会)行う
     08月 9日 三沢飛行場、米艦載機の空襲受け、「剣」「烈」作戦実施不可能となる
     08月 10日 三沢飛行場が米艦載機の空襲受ける
     08月 15日 終戦
     08月 18日 302空の零戦が三沢上空に飛来。徹底抗戦のビラを撒く
     08月 23日 剣部隊解隊式。第724航空隊、残務整理隊を残して解隊
     09月 26日 米軍先遣隊、ジープで三沢基地に到着。724空残留隊、水交社にて軍艦旗を焼き解隊
     09月 27日 米第81師団パーカー大佐指揮の1,700名(2,675名とする資料あり)列車で三沢進駐
     09月 28日 三沢基地所在部隊の武器接収(正午開始、午後5時終了)
     09月 パーカー大佐、海仁会(旧海軍下士官集会所)に本部設置
       米陸軍航空隊第32施設工兵隊(ワイルドキャット)進駐、飛行場拡張整備実施
     10月 10日 三沢飛行場接収(JPNR4542-03)
       この月の中旬頃、三沢飛行場の零戦五四型を横須賀航空隊審査部が横須賀へ空輸。
       米軍に引き渡して審査残留隊戦闘機関係者復員
     12月 米空軍第49戦闘航空隊配置
     12月 7日 試作機「連山」を横須賀の米軍に引き渡し
     12月 23日 三沢の横須賀海軍航空隊審査部隊解散
1946年07月 1日 三沢に第8軍第32工兵技術大隊駐留。基地工事始まる
     07月 15日 第1692工兵大隊駐留
     11月 30日 三沢米軍航空施設事務所(AIO)隊長リットル中佐に旧日本海軍施設配置図引渡し
1947年10月 基地建築工事ほぼ終了
1948年01月 三沢基地建設の米第32工作隊の命令により滑走路工事担当が西松組から大林組に変更
     11月 15日 米軍基地工事終了。工事費14億円。労務者延べ人員280万人、滑走路延長2,580m、幅員45m
1951年02月 20日 運輸大臣、民間航空開始に伴い、三沢飛行場を中継飛行場として使用すると発表
     07月 10日 民間航空三沢飛行場開設促進の陳情を県会採択
     08月 1日 民間航空事業発足
1952年01月 11日 日本航空の東京-札幌便(週上下1便)の三沢寄港始まる
1953年09月 9日 三沢基地バーディー司令官、風紀取締りを大三沢町に書簡で要請。
       町風紀取締本部設置。巡回車で自粛訴え。その後三沢米軍基地との連絡協議会設置条例を制定
     12月 三沢日米連絡協議会設置(定例会年2回)
1954年02月 9日 三沢基地広報課が28年に米軍が三沢で消費した金額は310万ドルと発表
     08月 東京-三沢-札幌間の航空会社が日本航空から日本ヘリコプター航空に移管
     10月 1日 航空自衛隊北部訓練航空警戒隊が青森で編成
     10月 16日 航空自衛隊北部訓練航空警戒隊が青森から三沢に移駐
     10月 18日 三沢の米空軍第511航空警戒管制団、航空自衛隊の訓練開始
1955年11月 23日 三沢基地の米軍削減始まる。在日米軍4,000名削減
1958年01月 27日 三沢基地司令官、特飲街店27店に米兵立入禁止する
     03月 16日 赤線地帯廃止
     08月 1日 三沢に航空自衛隊北部航空方面隊司令部設置
     10月 1日 航空自衛隊三沢基地隊設置
1961年10月 24日 太平洋横断飛行30周年を記念して淋代海岸に記念碑建立。県知事、米札幌総領事等出席
1962年05月 5日 三沢航空保安事務所が米軍と共同による管制業務を開始(昭和40年8月業務移譲)
     10月 14日 第三報知日米号の記念碑招和台に建立
1965年01月 22日 第四戦闘迎撃中隊(F-102)が6月末までに本国引き揚げ決定。
       最盛期20,000人を数えた米軍人家族が約8,000人減少する
     03月 31日 三沢空港利用の民間定期航空・全日本空輸東京-三沢線廃止(八戸飛行場使用)
     03月 姉沼AN/FLR9(通称・像の檻)完成。米第6920電子保安大隊配置
1967年10月 3日 三沢基地にF-4 18機配備
     10月 25日 航空救難支援隊設置
1968年01月 30日 テト攻勢。ベトナム戦線で米軍の敗退続き、三沢基地の米兵による不祥事件多発
       この件で9月16日、市長が基地司令官に厳重抗議
     10月 20日 三沢で開催の反戦大集会に3,150人参加
1970年03月 17日 ベトナム戦線から米偵察機一個中隊が三沢に移駐
     04月 30日 三沢基地内の米兵間に反戦ビラがばら撒かれていることが判明
1970年12月 21日 第12回日米保安協議委員会が在日米軍実戦兵力を沖縄・韓国への移駐で合意
       三沢基地の第475戦闘機隊3個中隊は韓国へ移駐、偵察中隊は本国へ引き上げ
       保安部隊のみ駐留し、施設は引き続き米軍が使用
     12月 23日 八戸の自衛隊第81航空隊の三沢移駐が決定
1971年07月 1日 航空自衛隊北部航空警戒管制団、三沢基地航空管制権を米空軍から引継ぐ
1971年11月 4日 太平洋無着陸横断飛行記念碑除幕式。マイヤー・アメリカ大使出席
     11月 30日 三沢基地、日米共同使用に決定
     12月 1日 八戸の航空自衛隊第81航空隊が三沢に移駐(F-86F)(昭和47年2月1日完了)
1972年06月 気象観測業務を航空自衛隊に移管
     08月 3日 三沢基地として接収されていた民有地、段階的に返還始まる
1973年01月 31日 防衛庁、岩国基地のP-3B対潜哨戒機の三沢移駐を三沢市に要請。市長は反対を表明
     10月 8日 米空母ミッドウェー艦載機の訓練が三沢で行われる
     10月 9日 三沢市長が訓練中止を申し入れる
     10月 11日 漁協の抗議で中止となる
1974年01月 1日 騒音規制法によって騒音規制地域に指定
     10月 航空自衛隊ラプコン運用開始
     12月 19日 三沢市、岩国基地の米海軍P-3C 9機の三沢移駐を了承
1975年05月 10日 民間航空定期便・東亜国内航空による三沢-東京、三沢-千歳便再開。1日1便 DC-9
     11月 28日 三沢航空事務所に航空路無線援助施設設置
1977年09月 27日 航空自衛隊F-1三沢に配備。翌53年18機の配備完了
     09月 民航ターミナルビル 基地外東端部に完成
1978年07月 東京-三沢便、1日2便から3便に増便(日米合同委員会承認)
1979年07月 東京便の週3日3便を週4日4便に増便
1980年05月 東京-三沢線、1日4便に増便と三沢-千歳線、1日1便の計5便で運用
1981年03月 三沢にDC-9-81型機就航
     04月 1日 東亜国内航空東京-三沢線にA-300就航(日米合同委員会承認)
     05月 2日 市長がウェナッチ市の招待を受け渡米
     10月 4日 太平洋無着陸飛行50周年記念式典。ウェナッチ市と姉妹都市締結式が公会堂で行われる
       ウェナッチ市から親善使節18名参列
1982年05月 1日 ウェナッチ市へ親善使節団派遣
1983年02月 9日 E-2C 2機配備
     02月 28日 三沢航空事務所、空港ターミナル地内に移転
     05月 2日 ウェナッチ市へ親善使節団派遣
     09月 3日 大韓航空機撃墜事件に関連してF-15飛来
     10月 1日 青森地方気象台三沢空港出張所開設
1984年02月 民航エプロンが基地外東端部で暫定運用開始
     03月 新管制塔の運用開始
     04月 27日 三沢に核貯蔵庫存在と報道される
     05月 5日 ウェナッチ市りんご花祭りに三沢青年会議所会員など16名招待される
     05月 27日 航空自衛隊三沢基地からのスクランブルが1,000回となる
1985年04月 2日 米空軍第432戦術戦闘航空団第13戦術戦闘飛行中隊配備開始
       三沢基地に第一陣としてF-16A 3機到着。F-16配備反対デモ
     04月 12日 F-16配備反対に絡み三沢空港で爆弾騒ぎ
     04月 17日 三沢空港ターミナルビル新築移転・開業
     05月 3日 ウェナッチに親善視察団出発。初の中学生大使4名派遣
     06月 21日 防衛庁、F-16配備に伴い460世帯に防音対策実施
     06月 27日 三沢市議会、F-16配備了承
     09月 3日 米空軍F-16戦闘機隊1中隊27機の配備完了
1986年03月 ARTSおよび管制塔空域監視レーダースコープ運用開始
     05月 2日 ウェナッチ市へ中学生親善大使派遣(2回目)
1988年04月 米空軍F-16による演習激化(LORE,ORI)
     05月 6日 ウェナッチ市へ市長外中学生大使・文化使節団訪問
     05月 28日 三沢基地滑走路改修工事着工。工期2週間
     10月 31日 F-16配備に伴う三沢飛行場周辺騒音区域追加指定を告示(騒音コンター線引きの拡大告示)
1989年03月 16日 F-16三沢対地射爆場(通称・天ケ森射爆場)訓練飛行中、訓練弾を六ヶ所平沼地区民家庭先に誤投下
     03月 23日 太平洋空軍最大の基地ショッピングセンター「BX(ベースエクスチェンジ)モール」オープン
     03月 31日 空自「三沢ヘリコプター空輸隊」(CH-47J)機種配置により新編配備
     04月 12日 三沢基地米海軍第1哨戒隊三沢分遣隊P-3C対潜哨戒機が離着陸初訓練開始
     05月 8日 米海軍艦載機による無通告のNLP、2年半ぶり再開。騒音苦情169件
     09月 23日 米国クエール副大統領、三沢基地訪問。市長、知事が表敬しNLPなど飛行訓練について配慮要請
1990年08月 18日 米軍三沢基地、市長のNLP視察許可。20日レーサム司令官、市長に陳謝
1991年08月 10日 ウェナッチ友好親善使節団15名来市。姉妹都市締結10周年記念アップルフェステバル
       フロート(山車)制作。三沢祭に特別参加
     10月 5日 太平洋無着陸横断飛行60周年記念式典。ウェナッチ市から市長ら6名来市
1992年01月 17日 F-16訓練飛行中、補助燃料タンク異常で十和田湖宇樽部地区湖上に投棄
     02月 25日 三沢市国際チャーター便就航期成会設立総会

     05月 14日 昨年11月F-16が投棄した実弾2発の回収に海自潜水艦、救難母艦、掃海艇など6隻650人投入
1993年05月 20日 十和田湖投棄のF-16燃料タンクを米軍回収断念
       レーサム司令官が県知事に文書で1月、4月発生のタンク冬季事故回収問題を弁明
     04月 28日 JAS三沢-大阪便就航1日1往復。新規路線開設(片道28,950円)
     05月 13日 旧海軍三沢航空基地関係五団体代表者、三沢海軍航空隊記念碑建立要望書を市に提出
1994年04月 13日 空自三沢基地の整備員、T-4練習機に悪戯判明(電気系統故障を続発させて約7ヵ月間飛行停止)
     04月 27日 三沢-東京便にA-300型機(298席)8年ぶりに就航再開
1995年08月 18日 ミス・ビードル号記念広場オープン記念式典。ウェナッチ市長出席
     08月 28日 元米軍兵士3人が共同通信インタビューで1950年代に三沢基地で核兵器の整備をしたと証言
     09月 28日 市民の森に元三沢海軍航空隊之碑除幕式。元隊員、家族、自衛隊、米軍、関係者約300名参列
       建立日は戦後50念を記念して8月15日
1996年03月 15日 JAS三沢-関西国際空港線就航
     12月 1日 JAS関空便、週3往復に減便。1月8日から運休
1997年01月 1日 在日米軍基地軍人軍属の私有車両に対人3千万円以上対物三百万円以上の保険加入を義務付け
     09月 21日 北朝鮮中距離弾道ミサイル「ノドン」警戒のため大型偵察機「コブラボール」飛来
1998年03月 6日 三沢空港利用促進期成会設立総会
     04月 23日 三沢空港前にミス・ビードル号の航跡が刻まれたサインレリーフ除幕式
     05月 1日 F-16x12機、隊員170人PKO支援とイラク飛行禁止区域監視のためペルシャ湾に派遣
     08月 31日 北朝鮮、テポドン発射。第一段部分が日本海に落下。第二段部分の一部が三沢沖90km、
       本体が同沖620kmの海域に落下
1999年03月 4日 米国の航空機実験協会ウェナッチ支部、ミス・ビードル号の復元機製作、再現飛行計画発表
2000年01月 1日 東奥日報が米空軍の機密文書を入手し、「冷戦が深刻化した1950年代から60年代にかけて
       米軍三沢基地が核攻撃基地だった」と報道
     01月 4日 三沢空港利用客数一千万人達成。昭和50年5月10日民間機就航以来24年8ヵ月目
     07月 18日 ミス・ビードル号メモリアル飛行実行委員会発足
     07月 20日 三沢ビードルビーチオープン
     09月 5日 米海軍空母キティ・ホーク艦載機FA-18がNLP(夜間離着陸訓練)実施。
       戦闘機によるNLPは平成8年以来。県、市、市議会の中止要請を無視
     09月 11日 米海軍NLPに抗議。1.米海軍三沢航空基地隊との交流中断 2.今後実施があれば
       米海軍三沢撤去を要請 3.三沢基地のNLP実施、予備基地反対 市が三点を文書で国に提出
     09月 22日 相次ぐ欠陥報道を受けて市議会はF-2配備延期を防衛庁に申し入れ
     10月 3日 空自三沢基地にF-2約20機配備開始(1機約120億円)。13年5月2日配備完了
2001年01月 29日 NLP実施4基地関係市(三沢、福生、大和、岩国)市長意見交換会開催(大和市)NLP
       硫黄島で全面実施要請を確認
     02月 22日 米空軍三沢航空隊リチャード・D・ハイ司令が市長訪問。昨年九月のNLP実施を謝罪
       今後は硫黄島で100%実施との在日米海軍司令官の方針を伝える。米海軍との友好関係再開
     08月 23日 三沢市とウェナッチ市が姉妹都市締結調印
     09月 11日 米国同時多発テロ。三沢基地脅威警戒態勢D。日本人従業員は自宅待機。基地内各学校は
       休校。中央町-駒沢間の生活道路封鎖。13日Cに緩和。14日自宅待機、休校解除。25日Bに緩和
       同期間自衛隊、警察も警戒強化。14日から通常勤務
     10月 8日 米のアフガニスタン攻撃に伴い基地警戒態勢Cに格上げ
       県警、三沢署、海保も「警備対策本部」設置
     10月 11日 「テロ対策連絡会議」設置。市、三沢警察署、空自三沢基地、東北電力、
       東京航空局三沢事務所、JR三沢駅など実務者20名
     10月 25日 北海道警察機動隊約80人がテロ警戒のため三沢入り

     10月 29日 県テロ対策連絡会議初会合。関係34機関出席。最もテロの標的となる恐れが強い三沢基地、
       六ヶ所核燃料施設抜きで論議
     12月 20日 天ケ森、砂ケ森地区の集団移転事業費、国の新年度予算1億2400万円(特別枠調査費)財務初内示
2002年04月 17日 JAS東京便の利用者900万人達成
     05月 7日 天ケ森、砂ケ森集団移転地が織笠南部に決定(約100戸)
     05月 27日 三沢空港振興会発足。利用圏域17市町村、県、三沢空港ターミナルで構成
     08月 27日 太平洋展望台完成記念式典。淋代海岸ミス・ビードル号記念広場。高さ22.84m
     11月 25日 JASが県に寄贈したYS-11が三沢飛行場に運搬飛行。12月2日、県立三沢航空科学館内に搬入
     12月 1日 JAS東京便、4往復から3往復に減便。機種A-300からMD-87(定員163人)に小型化
2003年05月 2日 ミス・ビードル号復元機がウェナッチ市でテスト飛行成功
     08月 8日 青森県立三沢航空科学館オープン
2005年05月 20日 米ワシントン州議会から通知。ミス・ビードル復元機の再現飛行中止
2007年10月 1日 JAS三沢-札幌便休止
     10月 12日 米軍三沢移動式弾道ミサイル情報処理システム JTAGS配備完了
     10月 17日 F-16 5機追加配備。昭和60年配備当初2飛行隊計50機。のち36機まで減少
       今年7月イラクで1機墜落。今回配備で計40機に
2009年07月 三沢空港に上十三・下北地域の特産品を販売するアンテナショップ「空の駅」開店
     09月 4月初旬、米軍三沢基地に配備しているF-16戦闘機約40機すべての撤収や
       嘉手納基地のF-15戦闘機の一部の削減する構想を日本側に打診していたことが判明する
     12月 米国から「ミス・ビードル号」復元機が到着。ミサワ航空科学館で展示
2010年04月 日本航空、三沢-伊丹線の廃止表明
     05月 天ケ森射爆場や三沢基地に隣接する天ケ森、砂ケ森、玉川目地区で進められてきた集団移転
       255戸年度内完了を発表
2011年06月 米兵による飲酒運転事故が相次ぐ。傷害事件や住居侵入事件も発生
       マイケル・ラスティーン大佐、市役所を訪れ陳謝
     08月 米国から招致した「ミス・ビードル号」復元機が三沢飛行場上空でデモフライト。
       9月の航空祭でも実施。
     10月 「ミス・ビードル号」太平洋無着陸横断飛行80周年記念
       原付自転車のナンバープレートにビードル号のデザインを採用する
2012年11月 1日 十和田湖底から引き上げられた旧日本陸軍機「キ-54」一式双発高等練習機の一般公開
       三沢航空科学館で始まる
2013年01月 防衛省、12年度から米国に発注を開始した最新鋭ステルス戦闘機F-35を早ければ17年度から
       三沢基地に配備する計画と発表
2021年08月 5日 ミス・ビードル号90周年タペストリーを2F出発ロビー壁面に設置

関連サイト:
三沢空港ターミナル株式会社     
国土交通省東京航空局/三沢飛行場   
ブログ内関連記事(
航空科学館淋代海岸    

この記事の資料:
「ミサワ航空史」
「日本海軍航空史」
防衛研究所収蔵資料:5航空関係-航空基地-77 終戦時に於ける海軍飛行場一覧表 昭35.6.29調


コメント(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行

コメント 1

とり

オデコさん
nice! ありがとうございます。
by とり (2007-10-21 09:05) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0